ダビデの悔い改めと神の赦し

真理

ダビデは神の心にかなう人でした。神に選ばれてイスラエルの王となりました。しかしこのような人でもかんいんと殺人の罪を犯しました。これは人がいかに信頼できないものであり、いつもキリストを違犯のためのささげ物と罪のためのささげ物として必要とすることを示しています。
詩篇第五一篇はダビデの悔い改めの詩歌であり、彼が悔い改め、徹底的に罪を告白し、神の赦しを受けた経験を述べています。
しかし神はこれによってダビデを完全に赦し、もはや追及されないのでしょうか?

ダビデの大きな罪
ダビデは王たちの世代の最初の人でした。彼は神に選ばれ、イスラエルの王となり、神のために地上に王国を設立し、神のために宮を建造する願いがありました(サムエル上十六・十二―十三)。しかしながら、このように神の心にかなう人でも(サムエル上十三・十四)、居心地の良い環境の中で大きな罪を犯しました。

サムエル記下第十一章は述べています。ある日の夕方、ダビデは床から起き上がり、王の家の屋上を歩いていました。すると屋上から、一人の女が水浴しているのを見ました。その女は姿が非常に美しく見えました。ダビデは人を遣わしてその女について尋ねさせ、へテ人ウリヤの妻バテ・シバだと知りました。ダビデは使者を遣わして、彼女を連れてきて、彼女と寝ました。後に女は身ごもったので、人を遣わしてダビデに告げました。ダビデは自分の姦淫の罪を隠すために、ヨアブのところに人を遣わし、ヘテ人ウリヤを戦場からダビデのところに来させるように命じました。ダビデはウリヤに家に帰って休むように言いました。しかしながら、ウリヤは王の家の入口で、彼の主君のしもべたちと共に寝ました。ダビデがウリヤにどうして自分の家に帰らないのかと尋ねると、ウリヤはダビデに言いました。「あの(契約の)箱もイスラエルもユダも小屋に住み、わたしの主君ヨアブも、わたしの主君のしもべたちも、野で宿営しています。わたしは自分の家に行き、食べ飲みして、妻と寝ることができるでしょうか? ……わたしは決してこのことをいたしません!」(十一節)。その後、ダビデは彼を招いて自分の前で食べ飲みさせ、彼を酔わせました。しかしウリヤは自分の家には帰りませんでした。ダビデは自分の謀ったことがうまくいかないのを見て、ウリヤに対して殺意が起こりました。次の日の朝早く、ダビデはヨアブに手紙を書いて、ウリヤに持って行かせました。その手紙の内容は、ウリヤを最も激しい戦いの前線に出し、彼が打ち倒されて死ぬようにせよ、というものでした(一―二一節)。ウリヤの死後、ダビデはバテ・シバを妻にめとり、彼女はダビデに男の子を生みました(二七節)。

ウリヤはダビデの三七人の勇士の一人で(二三・三九)、ダビデに非常に忠信でした。しかしながら、ダビデは肉の情欲の放縦のゆえに、彼に対してこのように恐ろしいことを行ない、姦淫の罪を犯しただけでなく、殺人の罪も犯しました。ダビデの行なったことは、エホバをはなはだ不愉快にさせました(十一・二七)。ですから神はナタンをダビデに遣わされました。ナタンはたとえを用いてダビデの罪の行ないを暴露し、ダビデが神の言葉を軽んじ、神の目に悪を行なったことを責めました(十二・一―九)。ダビデは神に責められ、自分が確かに大きな罪を犯したことを知り、自分の罪のために悔い改め、断食して泣いて祈りました。

ダビデの悔い改めの詩
詩篇第五一篇はダビデが罪を犯した後に書いた悔い改めの詩です。一節から二節は言います、「神よ、あなたの慈愛にしたがって、わたしに恵み深くあってください.あなたの大きなあわれみにしたがって、わたしの違犯をぬぐい去ってください。わたしを罪科から徹底的に洗い、わたしの罪からわたしを清めてください」。ダビデは、ぬぐい去って、洗い、清めて、という言葉を使って彼の罪に言及しました。これはダビデが徹底的に悔い改めて告白したこと、彼が神の赦しを求めているのは真実で切実であることを示します。

三節から四節は言います、「まことに、わたしは自分の違犯を知っています.わたしの罪は常にわたしの前にあります。わたしはあなたに、ただあなたに対して罪を犯し、あなたの目に邪悪を行ないました。それゆえ、あなたが語られるときは義しく、あなたが裁かれるときは明確です」。ダビデは悔い改めて神に向きを変えた時、自分の罪を見ました。自分の犯した違犯を隠そうとしただけでなく、彼がこのような罪を犯したことは、人に対して罪を犯しただけでなく、神に対して罪を犯したことであると知りました。なぜなら神は義しく、彼の裁きは明確であるからです。ですから、彼はどんな人あるいは環境も責めないで、自分は生まれながらの罪人であると告白しました。こういうわけで五節は言います、「まことに、わたしは罪科の中で生まれ、罪の中で、わたしの母はわたしを身ごもりました」。

六節は言います、「まことに、あなたは内なる各部分にある真実を喜ばれます.あなたはわたしの隠れた部分に知恵を知らせられます」。内なる各部分は人の魂の各部分(思い、感情、意志)を指しており、隠れた部分は人の霊を指しています。この節が言っているのは、人が罪を犯したとき、人の体において罪の行為を犯したり、他の人に対して恐ろしいことを行なったりすることだけでなく、人の内なる各部分においても問題を生じます。ダビデは彼の内側に問題があることを知りました。ですから彼は神に向かって、誠意をもって真実になって、霊の中に戻り、神から知恵を受けなければなりませんでした。

七節は言います、「ヒソプをもって、わたしの罪をきよめてください.わたしは清くなるでしょう」。ヒソプは、へりくだり卑しめられた人性におけるキリストを予表します(列王上四・三三前半、出十二・二二前半)。ヒソプは、キリストは仲保者また犠牲であること、すなわちキリストはまことの罪のためのささげ物また違犯のためのささげ物であることを暗示しています。ダビデがこのように祈ったことは、自分が罪深いものであることを認識したことを表しています。ですから自分に信頼するのではなく、神に信頼する必要があります。

十節でダビデは祈りました、「神よ、わたしの中に清い心を創造し、わたしの内にある堅固な霊を新しくしてください」。人は罪を犯すことによって古くなります。しかし、もし神に罪を告白し、神によって赦されたなら、新しくされることができます。ですから、ダビデは神に赦しと清めを求めただけでなく、新しくされること、清い心と堅固な霊を与えられることを求めました。十一節でダビデは続けて言います、「わたしをあなたの御顔から投げ捨てず、あなたの聖別の霊をわたしから取り去らないでください」。ダビデは自分を神の御顔から投げ捨てないようにと神に求めました。なぜなら、もし神の御顔を失うなら、あらゆるものを失うからです。神の御顔とは、実は彼の聖別の霊です。ですから、彼は神の御顔の光を必要とし、ただ神の御顔の前にとどまり、聖別の霊を受けるとき、彼は守られて罪から逃れることができます。

十二節で彼は祈り求めています、「あなたの救いの喜びをわたしに戻し、喜んで従う霊をもってわたしを支えてください」。失敗した人は喜ぶことができず、喜びの霊も持っていません。しかしながら、失敗した人が彼の罪を告白し、神に赦しを求めるなら、必ず神の救いの喜びを得て、喜びの霊を持つでしょう。ダビデはこのような経験があるので、違犯する者たちに神の道を教えることができ、罪人も必ず神に戻って来ました(十三節)。

最終的にダビデは、罪を悔い改めて告白する祈りの中で神に触れ、神の定められた御旨のために祈り求めて言いました、「あなたの大いなる喜びの中でシオンに善を行ない、エルサレムの城壁を築いてください」(十八節)。これは真実な悔い改めと罪の告白の結果です。すなわち自分のために祈り求めるだけでなく、神の定められた御旨のためにも祈り求めます。ダビデは神の赦しを得て、救いの喜びを取り戻した後、シオンのために、エルサレムの城壁のために、神の王国が堅固にされるために祈りました。この後、神は彼に一人の息子を与えました。それはウリヤの妻バテ・シバから生まれたソロモンです。後にソロモンはダビデの王位を継承し、神のために宮を建造しました。これが、人が違犯し悔い改めて神が赦されたことの結果です。

神の赦し
ダビデは罪を犯した後、真実な悔い改めと罪の告白をし、神の赦しを得ました。しかしわたしたちは聖書から、神の赦しはこのように簡単でないことも見ます。聖書の中で述べられている赦しは、少なくても五種類あります。

五種類の赦し
永遠の赦し――命と関係がある。これはわたしたちの救われた赦しを指しています。わたしたちが主イエスの中へと信じた時、わたしたちのすべての罪は赦され、永遠の命を得て、永遠に赦しと義を得ました(ルカ二四・四七)。

委託の赦し――召会と関係がある。主は彼の召会に聖霊を与え、召会を地上で彼を代行するものとされました。ですから今日、神は召会を通しても人を赦します(ヨハネ二〇・二二―二三)。たとえば、罪のために苦しんでいるある人が悔い改めて主を信じましたが、赦しの意義はまだよくわかりません。召会の兄弟たちが彼をバプテスマする時、宣言して言います、「あなたは今日、主を受け入れました。神はすでにあなたの罪を赦されました」。これは神が召会の手を通して人の罪を赦されることです。

回復の赦し――交わりと関係がある。わたしたちは主を信じた後、永遠の赦しを得て、神の子供たちとなりました。これは永遠に変えられない事実です。しかしながら、わたしたちは日常生活において間違いを犯す可能性があり、神あるいは人と問題を持ちます。ですからわたしたちの良心はわたしたちを罪定めし、神との交わりは断たれます。この時、わたしたちは神に自分の犯した罪を告白しなければなりません。そうして神との交わりにおいて赦しを得ることができます(Ⅰヨハネ一・七)。もし兄弟に罪を犯したなら、彼らの所へ行って告白しなければなりません(マタイ五・二三―二四)。わたしたちは継続して神と交わりを持ち、間違いがあるとき神に誠実な罪の告白をし、神に赦しを求めるなら、神との交わりを回復することができます。

統治上の赦し――懲らしめと関係がある。この種の赦しは神の案配、支配、懲らしめ、および神の御手と関係があります。神の統治は神が事を行なわれる方法と管理です。これは神の統治とわたしたちを取り扱う方法と関係があります。わたしたちが罪を犯し神に罪を得るとき、わたしたちは彼に罪を告白しさえすれば、彼はすべて赦してくださいます。しかし神はわたしたちを対処する方法を変えることもでき、懲らしめられることもあります。わたしたちが神の統治上の懲らしめの下でできる唯一のことは、神の力ある御手の下にへりくだらされることを学ぶことです(Ⅰペテロ五・五―七)。

王国の赦し――行政と関係がある。わたしたちがもし他人に厳しくしすぎたり、現在赦さない霊を持っていたりするなら、王国の時代に懲らしめを受けるでしょう(マタイ十八・三三―三五)。わたしたちがもし厳しく人を扱ったり、鋭く人を批評したりするなら、将来神は同じ方法でわたしたちを取り扱うでしょう(七・一―二)。わたしたちは主が恵みを与えて、わたしたちをあわれみの人にしてくださるように求めなければなりません。すなわち、厳しく鋭い手段で人を取り扱うことなく、かの日にはわたしたちが神のあわれみを得ることができますように(五・七)。

ダビデは神の行政上の赦しを受けた
ダビデはウリヤのことにおいて、神に真心をもって罪を告白し、神の赦しを得ました(サムエル下十二・十三)。しかし神の赦しはここで止まっただけでなく、神はまたナタンを通して三つのことを語られました。第一に、「しかし、あなたはこのことのゆえに、エホバの敵に彼を冒とくする多くの機会を与えたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」(十四節)。第二に、「それゆえ、今、剣はあなたの家から永久に離れない.あなたがわたしを軽んじて、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである」(十節)。第三に、「見よ、わたしはあなたに対する災いを、あなたの家の中から起こす.わたしはあなたの妻たちをあなたの目の前で取って、あなたの親しい人に与える.彼はこの太陽の面前で、あなたの妻たちと寝るであろう。あなたはひそかに行なったが、わたしはこの事を全イスラエルの前で、太陽の前で行なう」(十一―十二節)。神はすでにダビデの罪を赦し、取り除かれました。しかし神はウリヤの妻が生んだ子を死なせ、剣をダビデの家から永久に離れさせず、またダビデの息子アブサロムを反乱させ、ダビデの妻を汚させなければなりませんでした。ダビデは罪を犯し、悔い改めました。神との交わりも回復することができましたが、神の懲らしめは継続してダビデの身の上にあり、彼の死後も続きました。この例は神の行政上の赦しを説明しています。

わたしたちは知らなければなりませんが、神は慈愛とあわれみに満ちているばかりでなく、公正で畏るべき方でもあります。一面、神はダビデを赦します。もう一面で、神は彼の行政上の義にしたがって、ダビデを懲らしめ罰します。神はダビデの身に厳しい罰を与えました。なぜなら、彼が犯した罪はとても邪悪であったからです。ダビデの失敗の後、彼の家には多くのきんしんそうかん、殺人と裏切りなどの悪事が起こりました(十三章、十五・一―十九・八前半)。ダビデの家のこの前例のない罪の源は、彼の肉の欲の放縦によります。これは神を愛する人に対する罰と行政上の対処が、彼らの子供たちにまで影響することを明らかにしています。ダビデの罪はまたソロモンの子孫が王職において失敗した種をまき、最終的に彼らは王国と聖地を失い、聖なる民は捕囚となって、全地に散らされ、平安がなく、現在に至っています。

神は侮られるような方ではない
多くの時、人が神に対して罪を犯すと、神は行政上の御手を直ちに動かすことはできません。しかしながら、神がいったん行政の御手を動かされたなら、あいまいに去らせることはありません。人は神の大能の御手の下にへりくだるほかに、何もすることはできません。なぜなら、神は愛する者を、必ず取り扱われるからです(へブル十二・六)。わたしたちと神との交わりを失わせる罪は、とても容易に赦され回復されます。しかし、わたしたちがもし重大な罪を犯し、神がわたしたちの環境、家庭、事業、あるいは体において統治し懲らしめられるなら、わたしたちは逃げることができません。

ガラテヤ人への手紙第六章七節から八節が言っているように、「神は侮られるような方ではありません.なぜなら、人がまくものは何であれ、それをまた刈り取るからです。自分の肉へとまく者は、肉から腐敗を刈り取りますが、その霊へとまく者は、その霊から永遠の命を刈り取ります」。神がわたしたちに行政上の取り扱いをするとき、わたしたちはただ神の大能の御手の下にへりくだらされることを学ぶだけです。わたしたちが抵抗すればするほど、神の御手はさらに重くなります。ですから、神の行政上の御手がわたしたちの上にあるとき、わたしたちは完全にへりくだらされるべきです。

ダビデの事例はわたしたちに見せていますが、人は何と信頼できないものでしょう。自分はダビデと同じように罪を犯すことはないと思ってはなりません。わたしたちはみな、罪の中で生まれた罪人です。不注意であるなら、人に対して、また神に対して罪を犯します。わたしたちが真に罪を犯したとき、隠さず、神に徹底的に罪を悔い改め、告白しなさい。そうすればキリストの贖いを経験し、神の赦しを得ることができます。わたしたちは自分に信頼し、自分のためであるのではなく、神の定められた御旨に関心を持ち、御旨のためです。このように、わたしたちは神の御手の中で有用な人と成ることができます。わたしたちはまた神は義であり、侮られるような方ではないことを認識する必要があります。わたしたちが犯すどんな罪も、最終的にみな自分へとその悪い結果が戻ってきます。ですから、わたしたちは絶え間なく神との交わりの中に生き、常にキリストをわたしたちの違犯のためのささげ物、罪のためのささげ物として取り、さらに神を愛し、神を畏れ、罪と悪から遠く離れなければなりません。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第4巻より引用

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