聖書において、単数の罪(sin)はわたしたちの性情に内住する罪を指しており、複数の罪(sins)は、罪の行為を指しています。レビ記の予表によれば、わたしたちの罪(単数)は、キリストがわたしたちの罪のためのささげ物となることによって対処されます。わたしたちのもろもろの罪(複数)、違犯は、キリストがわたしたちの違犯のためのささげ物となって担ってくださいます。本編では罪ともろもろの罪の区別について、詳しく説明します。
罪ともろもろの罪の区別
罪とは何でしょうか? 神学者たちは、「罪の根」、「罪の源」、あるいは「本罪」、「原罪」などの用語をもって「罪」を定義します。わたしたちの経験から見ると、人の内側には一つの支配するものがあって、強いて自然な傾向を持たせて、私欲と欲情の道を歩ませます。これが聖書の言っている罪です。しかし、人には内側で強制して、強いる罪があるだけでなく、外側で犯す一つ一つの罪深い行ないがあり、これをもろもろの罪と称します。これらを以下のように定義しても良いでしょう。罪(単数)は、人の内側で力を持って人を支配して罪を犯させる性質を指しています。もろもろの罪(複数)は、人が外側で行なう数えることのできる罪の行ないです。
もろもろの罪は、人の外側の行為であり、一つ一つ行なったことですから、これに対して人は自分の罪を認めて赦してもらう必要があります(マタイ九・二、Ⅰヨハネ一・九)。しかし人をそそのかし、強制して罪を犯させるものに対しては、赦しではなく、逃れる必要があるだけです。人はその権力の下にいないようにするなら、それと関係が生じないので問題は出てきません。ですから、このことに対して人が必要とするのは解放されることです(ローマ八・二)。ですから聖書は、ただの一度も「罪(単数)は赦される」とは言っておらず、「もろもろの罪は赦される」と言っています。同時にまた「もろもろの罪から解放される」とは言わずに、聖書は「罪から解放される」とだけ言っているのです。もろもろの罪については「赦し」が解決であり、「罪」についてはその力の下にいないで、それと関係を持たないなら解決されます。
罪ともろもろの罪に対する認識
人がまだ救われていないときは、罪悪感がありません。せいぜいもろもろの罪悪感だけです。人が救われたばかりのころに、心の内で苦しいと感じさせるものは、たいていもろもろの罪であって、罪ではありません。たとえばすでに救われている人が嘘をついたり、短気を起こしたり、嫉妬したり、高ぶったりします。あるいはちょっとした不注意で、他人の物を自分の物にしてしまいます。一つ一つの罪に煩わされますが、ではどうしたらいいのでしょうか? それは神の御前に行って、一つ一つ神に赦しを求めるのです。「神よ、今日わたしはよくありませんでした。また罪を犯しました。わたしを赦してください」。昨日は十二のよくないことをしたかもしれません。心の内は特につらいです。今日は二つのよくないことをしただけなら、心は少し軽いです。というのは、今日は多くの罪を犯さなかったからです。これは、クリスチャン生活が始まったばかりのころにある光景です。
クリスチャンになって何年も後に、耐えがたいと感じたり、煩わされると感じたりするのは罪であって、もろもろの罪ではありません。人が行なった事柄が間違っているのではなく、この人が間違っているのです。行なった事柄が悪いのではなく、この人が悪いのです。外側で行なうことは、高ぶりや嫉妬や汚れた事柄などの多くの様々な罪ですが、人の内側には、ただ一つの原則、すなわち罪を好み、罪へと向かうものがあるということです。外側の罪は複数であり、一つ一つです。高ぶりは一つのことであり、嘘をつくことは一つのことであり、姦淫は一つのことです。高ぶりと殺人は同じではありません。嘘をつくことと姦淫は同じではありません。しかし人の内側で支配し、そそのかして罪へと向かわせるものはただ一つです。人が罪を犯すのは、内側に一つの法則があって、絶えず人を外側の罪へと向かわせるからです。この罪は、聖書では単数です。この罪は、人の行為を指しているのではなく、人の性質を指しています。この罪は、わたしたちの生まれつきの命の中にあります。わたしたちは救われて、この罪から解放される必要があります。
たとえて言うなら、もろもろの罪は一本の木の実のようであり、一個一個です。一本の木は百個も二百個も実を結ぶことができます。これがもろもろの罪です。罪は木自体です。今日わたしたち罪人が、目で見ることができるのは実です。しかし、わたしたちが実を見るだけで木を見ないなら、それはよくありません。実が悪いのは、木が悪いからです。今日神がわたしたちを導いて、罪を認識させてくださるのもこのようです。最初の頃は、一つ一つの罪を見せてくださいますが、後ほど人自身を見せてくださいます。
最大の罪
すべての罪の中で、筆頭に挙げられる罪があります。その罪は、すべての罪をもたらしました。聖書は、罪は一人の人を通してこの世に入ったと言っています(ローマ五・十二)。その一人はアダムを指していますが、アダムが犯した罪とは何でしょうか? 姦淫、盗み、殺人、放火でしょうか? アダムは、そのような邪悪で汚れた罪を犯したのではありません。彼は、もし自分が善悪知識の木の実を食べるなら、神のようになることができると考えただけです。最初のその罪は、わたしたちが思っているような罪ではありません。アダムは、その時ギャンブルをしたのでも、通りの邪悪な物を見たのでもなく、良くない本を読んだのでもありません。彼がその時犯した罪は、神との間で問題が生じたので、それに続いて多くの罪がやってきました。その一つの罪は、旧約における唯一の罪、すなわち神を愛さない罪です。彼は神の愛に対して疑問を持ったので、問題が生じました。エデンの園で、人と神の間に問題が起こりました。ですから、エデンの園の外で、人と人にも問題が起こりました。兄が弟を殺し、続いてあらゆる種類の罪が起こりました。最初の罪は、わたしたちが考えているような汚れた事ではありませんでした。しかしながら、その一つの罪は最も重大な罪であり、人と神との間に問題が出てきました。
新約に来ると、主イエスは何度も、信じる者は永遠の命を持つと言われました。もし信じる者が永遠の命を持つなら、だれが滅びるのでしょうか? 殺人をした人や姦淫をした人が滅びるのでしょうか? 汚れた思いや正しくない振る舞いを持つ人たちでしょうか? そうではありません! ヨハネによる福音書は言います、「信じない者はすでに罪に定められている」(三・十八)。信じない者には、神の激怒が彼の上にとどまります(三六節)。主イエスはまた、聖霊が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の人に自らを責めさせると言われました(十六・八)。なぜ罪についてなのでしょうか?あなたが、最近映画を見に行ったからでしょうか?最近ギャンブルをしたからでしょうか? だれかを殺したからでしょうか? それとも放火をしたからでしょうか? 違います、「罪についてとは、彼らがわたしの中へと信じないからである」(九節)。人が今日持っている最も大きな困難は、汚れを罪と考えることです。そして主の言葉にあまり注意を払わずに、神は何を罪とみなされるのかを見ないのです。人が神との正常な関係を失ってしまったために、あらゆる種類の罪が出てきました。これがすべての問題の根源です。
その他の罪
神を愛さないことと主を信じないことは、二つの主要な罪です。これらから、その他の多くの罪が生み出されます。それは、不義、邪悪、貪欲、嫉妬、殺人、もがき、欺き、憎しみ、中傷、陰口、神への冒とく、横柄、誇り、傲慢、偽りの訴え、父母に対する不従順、不忠実、天然の情愛、あわれみの欠如、自己愛、金銭愛、恩知らず、凶暴、善をさげすむ、人を裏切る、向こう見ず、自分を高く上げるなどです。これらの罪は、人がかつて犯した最も重大な罪ではありませんが、やはり神の御前に罪です。わたしたちは、信じない罪を重く見なければなりません。また、その他の罪を軽んじることもできません。なぜなら、すべての罪にはみな刑罰があるからです。
罪ともろもろの罪の結果
罪の結果は、わたしたちを罪人とならせました。もろもろの罪とは、わたしたち罪人が犯したものです。この両者には区別があります。わたしたちはアダムから生まれたので、罪の力の下に服しており、罪はわたしたちの生活と生活の原則になっています。ですから、わたしたちは罪人です。同様に、わたしたちの外側にはこんなにも多くの一つ一つの罪があるのですから、罪を犯す人となっています。罪を犯すことはもろもろの罪と関係があり、罪人は罪と関係があります。
人は罪の力に従ってしまうと、もろもろの罪を犯します。ひとたびもろもろの罪を犯すなら、神の御前で罪を持ちます。あるいは罪名、罪状を持ちます。罪を持つと、英語で言う「guilty」(有罪)と同じで、法廷で法律に基づいて「有罪」と宣告されるようなものです。
ヨハネの第一の手紙第一章八節は言っています、「もし、自分には罪がないと言うなら、わたしたちは自分を欺いているのであって……」。わたしたちに「罪」があることが、わたしたちに神の御前において罪の問題を持たせるのではなく、わたしたちが「もろもろの罪」を犯したので、神の御前で罪の責任を負わされるのです。ですから九節は、「もし、わたしたちが自分の罪(もろもろの罪)を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪(もろもろの罪)を赦し……」と言っています。ここで、わたしたちは自分のもろもろの罪は責任を負わなければならないことを知ります。聖書によれば、わたしたちは「罪」の責任を負うのではなく、「もろもろの罪」の責任を負うと言っています。
もろもろの罪があるゆえに、有罪となります。いったん人が有罪になると、刑罰の問題が生じ、良心に平安がなくなり、神から遠く離れているという感覚があります。もろもろの罪によって、わたしたちは神の御前に罪定めされた人とされます。もろもろの罪によって、わたしたちは神の怒りが現れるのを待つしかありません。人は赦されてはじめて、良心に平安を持ち、神のもとに来る大胆さを持つのです。しかしもろもろの罪が赦されたとしても、もし罪の問題がまだ解決されていないなら、もろもろの罪が続けてやってきて、またもや有罪の問題が生じます。
罪ともろもろの罪を対処する
聖書において、神はわたしたちに罪が三つの場所にあることを見せています。第一に、罪は神の御前にあります。わたしたちの生活の中で罪が生じる時、知っていようと知らないでいようと、神の御前に罪が記録されます。ですから神は罪に対する裁きを執行しなければなりません。人には免れる道がないのです。第二に良心にあります。人が神の御前で罪の記録があったとしても、そのことを認識していないなら、何事もないかのようにしていることができます。しかしいったん知ったなら、神の御前にある罪が良心の中に入ってきて、その罪を訴えるので、内側に平安がなくなります。第三に、罪は神の御前と人の良心の中にあるだけでなく、人の肉の中にもあります。これは、ローマ人への手紙第七章と第八章が告げていることです。肉の中には罪の力があり、罪の行ないがあります。罪は肉の中で支配するほどです。肉の中の罪は主観的であり、それはわたしの中に住んでいて、力を持っており、わたしを強いて、そそのかし、扇動し、罪を犯すように促します。
例えば、ある兄弟は毎月百ドル稼ぐのですが、百五十ドル使ってしまうとします。彼はもともと借りることが好きで、それは彼の性格です。もし借りなければ、手がむずむずし、頭や体でさえも、むずむずしてくるでしょう。一ヶ月分の給料を使い果たした後も、彼はいくらか借りて使わなければならず、そうしてはじめて心地良く感じることができるのです。彼の中に三つの面を見ることができます。第一に、彼は多くの借金をして、債権者の側には記録があります。第二に、もし彼が借金の結果を知らないなら、彼は安心して借金し続けるでしょう。もし彼に光があって、自分の前途がとても危険であると知ったなら、彼は良心の中で見たのです。それだけではなく、彼の肉の中にも罪があります。彼は、借金するのは間違っていると知っているのに、なぜか彼の内側は借りないと気が収まらないのです。何かが彼の内側で扇動し、また借りるように促すのです。これは何でしょうか? これは肉の中の罪です。罪は彼の上で一面事実です。それは、彼に神の御前で罪の記録を持たせて、良心の中で罪定めします。もう一方で、罪は彼の肉の中にある力であり、いつも罪を犯すように彼を動かし、そそのかします。
肉の中の罪を対処するのは、わたしたちの古い人を十字架につけることによります。キリストが肉体において死なれたので、すべての消極的な事物はみな対処されました。堕落した人の性質の中の罪は、罪定めされました(ローマ八・三)。古い人は対処されました(六・六)。サタンという罪の本体は滅ぼされました(ヘブル二・十四)。この世は裁きを受けて、この世の支配者は追い出されました(ヨハネ十二・三一)。これは罪のためのささげ物の効力です。
このほかに、神の御前での罪と良心の中での罪は多くありますが、これはキリストが違犯のためのささげ物となって、わたしたちの代わりになって解決してくださいました。神は主イエスの上で、わたしたちの罪(もろもろの罪)を裁き、神の御前でのわたしたちの罪の記録を解決して、わたしたちの罪を対処し、罪の行ないの赦しを得させてくださいました。同時に聖霊が神の働きをわたしたちの前に置き、わたしたちに悔い改めて罪を認めさせ、主イエスの贖いを受け入れさせてくださいます。そうすれば良心は平安になって、もはや訴えられることはありません。良心は清められて、もはや罪があると感じません。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第3巻より引用