穀物のささげ物―― 神・人のミングリングの予表

真理

レビ記第二章の記載によれば、穀物のささげ物の基本的な材料は「きめの細かい小麦粉」と「油」です。四節は言います、「きめの細かい小麦粉によるもので、油を混ぜ合わせた……」。予表によれば、油は神性を示し、きめの細かい小麦粉はキリストの人性を示しています。油を混ぜ合わせたきめの細かい小麦粉は、神性と人性がミングリングされたものであることを示しており、それは神・人であるイエス・キリストの完全な予表です。神性と人性のミングリングの教えは、新約における啓示だけでなく、旧約の予表の中でも確証されています。

穀物のささげ物の主要な成分

きめの細かい小麦粉
穀物のささげ物は、きめの細かい小麦粉で作られます。小麦粉は、多くの過程を経過した小麦から生み出されます。それは、まかれ、葬られて死に、成長し、風、霜、雨、太陽に打たれ、刈り取られ、脱穀され、振るい分けられ、ひきこなされ、きめの細かい粉になります。きめの細かい小麦粉は、きめの細かさ、均一、柔和、優しさにおいて完全であり、完全に均衡がとれていて、何の過剰も不足もありません。

きめの細かい小麦粉は、キリストの人性がきめ細かく、完全で、均衡がとれており、すべての面において正しいことを表徴しています。あらゆる角度(前と後ろ、頭と足、右と左)から見ても、彼は正しいのです。

きめの細かい小麦粉は、多くの過程を経過した小麦から生み出されます。これらの過程はキリストのさまざまな苦難を表徴し、それは彼を「悲しみの人」としました(イザヤ五三・三)。主イエスは彼の人の生活において、悲しみに次ぐ悲しみを持たれました。このように、人類の間で、キリストだけが優しい唯一の方です。ただ彼だけがきめの細かい小麦粉です。彼には何の粗野なものがありません。キリストの人の生活と日ごとの歩みは、すばらしく卓越しています。


レビ記第二章一節は言います、「さて、だれかが穀物のささげ物をささげ物としてエホバに献げるとき、その人のささげ物はきめの細かい小麦粉によるものでなければならない.彼はその上に油を注ぎ……」。穀物のささげ物の油は神の霊を表徴します(ルカ四・十八ヘブル一・九)。キリストは人であり、人として卓越した人性を持っておられます。彼はまた神聖な要素、すなわち神の霊を持っておられます。穀物のささげ物では、油がきめの細かい小麦粉の上に注がれます。これは、神の霊がキリストの上に注がれたことを表徴します(マタイ三・十六ヨハネ一・三二)。穀物のささげ物として、キリストは油で満ちています。わたしたちは、彼が「油に調合された」とさえ言ってよいでしょう。彼は油とミングリングされていました。これは、彼の人性が彼の神性とミングリングされていたことを意味します。

穀物のささげ物のささげ方
「あなたがささげ物として、かまどで焼いた穀物のささげ物を献げるとき、それはきめの細かい小麦粉によるもので、油を混ぜ合わせたパン種のない輪型の平らなパン、あるいは油を塗ったパン種のない極薄のパンでなければならない。あなたのささげ物が、平なべの上で焼いた穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜ合わせた、パン種のない、きめの細かい小麦粉によるものでなければならない。あなたはそれを細かく砕いて、その上に油を注がなければならない.それは穀物のささげ物である。あなたのささげ物が、深なべで作った穀物のささげ物であれば、それは油を入れたきめの細かい小麦粉で作らなければならない。……その上に油を加え、またその上に乳香を置かなければならない.それは穀物のささげ物である」(レビ二・四―七、十五)。

油を混ぜ合わされたパン種のないパン――油を混ぜ合わせることは、聖霊とミングリングされることです。主イエスが胎に入られた時、聖霊が彼の中へとミングリングされました(マタイ一・十八ルカ一・三五)。キリストの人性には罪がなく(パン種がない)、彼の神性とミングリングされていました。胎にいる時から、すなわち、彼の人としての最初から、彼の人性は聖霊で包まれていました。聖霊から離れて、イエスは胎に入って生まれることはできませんでした。主の胎に入ることと誕生は、完全に聖霊からでした。彼の人性は聖霊とミングリングされていました。

油を塗ったパン種のない極薄のパン――きめの細かい小麦粉の上には油は注がれますが、パンの上には油は塗られます。小麦粉がまだパンになっていないとき、油を塗ることはできず、ただ油を注ぐだけです。パンとなったときにはじめて、油を塗ることができます。これは一つの行ないの二つの方法であり、すべて聖霊の注ぎ出しのことを言っています。これはキリストが聖霊によって油塗られ、聖霊が彼に注がれたことを表徴しています。主イエスが聖霊の注ぎ出しを受けた時、それは神が神の霊を用いて彼を塗られたということです(ルカ三・二二使徒十・三八)。

平なべの上で焼いた、油を混ぜ合わせた、パン種のない、きめの細かい小麦粉――このような穀物のささげ物で、きめの細かい小麦粉は形がありません。それは練り粉のかたまりでさえなく、単に平なべの上の小麦粉です。きめの細かい小麦粉は、水でなく油が混ぜ合わされました。この混ぜ合わせることは練り粉のかたまりを生み出しませんでしたが、細かく砕かれた穀物のささげ物とならせました。ここで油を混ぜ合わせることは、聖霊とミングリングされることを再び表徴します。

油をかたまりの上に注ぐ――穀物のささげ物は細かく砕かれました。これは、キリストの人性が完全であって、しかも決して全体のままでないことを表徴します。それは常に砕かれます。この砕くことは、キリストが人性の中で経過した別の種類の苦難を指しています。破片に油が注がれることは、キリストが聖霊で油塗られることを表徴します。

油が注がれた破片――この穀物のささげ物は、細かく砕かれました。これは、キリストの人性が完全であって、しかも決して全体のままでないことを表徴します。それは常に砕かれます。この砕くことは、キリストが人性の中で経過した別の種類の苦難を指しています。破片に油が注がれることは、キリストが聖霊で油塗られることを表徴します。

深なべの中のきめの細かい小麦粉――小麦粉はなべの中で調製され、別の種類の苦難におけるキリストの人性を表徴します。このささげ物における他のすべての項目は、平なべの上のきめの細かい小麦粉のささげ物の項目と意義において同じです。

穀物のささげ物の上に油を加える――穀物のささげ物の上の油は、キリストの人性の上に注がれた聖霊を表徴します。

乳香を置かれる――穀物のささげ物の中の乳香はキリストの復活におけるかぐわしさを表徴します。乳香はきめの細かい小麦粉の上に加えられました。これは、キリストの人性が、彼の苦難から現された復活の芳香を帯びることを表徴します(参照、マタイ十一・二〇―三〇ルカ十・二一)。

福音書に啓示された
穀物のささげ物としてのキリスト

穀物のささげ物であるキリストの卓越性は、彼の神性と人性の中にあります。神性に関して、キリストは神聖な属性を持っておられ、この神聖な属性は彼の人性の美徳を通して、美徳と共に、美徳の中で表現されます。こういうわけで、彼はすべての人よりも高い水準の倫理、道徳を持っておられます。彼は神であり、また人です。彼には神聖な属性を伴う神であるものがあり、それに人性の美徳を伴う人であるものが加えられました。これがイエス・キリストの卓越性です。この卓越性は神性と人性のミングリングが生み出したものです。わたしたちは福音書を読むとき、これを思いにとどめるなら、キリストが地上で生きていたときに、彼が最高で最上の人性を持つ人であったことを見ることができます。この人性が「油に浸され」ました。なぜなら、その人性が彼の神性とミングリングされたからです。

まず、彼は神の霊から生まれました(マタイ一・十八二〇)。これは彼がその霊とミングリングされる事柄でした。次に、彼は三十歳の時、神の霊で油塗られました。水のバプテスマの後、聖霊が彼の上に注がれました(マタイ三・十六)。キリストの聖霊に対する二つの面の経験から、穀物のささげ物としての主イエスの絵を見ることができます。

ルカによる福音書で言っていますが、主イエスが十二歳になって、過越の祭りのためにエルサレムに上られた時に、彼は宮の中で、教師たちの真ん中に座り、彼らの言うのを聞いたり、彼らに問いかけたりしました(二・四二四六)。彼の肉の両親は心配して、慌てて彼を探しましたが、彼は両親に言われました、「わたしがわたしの父の事の中にいなければならないのを、ご存じなかったのですか?」(四九節)。不思議なことは、彼が彼の両親と共にナザレに戻られたことです(五一節)。これは穀物のささげ物です。彼は五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせ、満腹させ、残ったかけらを集めると、十二の手かごにもなりました(九・十四―十七)。彼は神の御前と人の前で生きられました。それは穀物のささげ物であり、何も責められることのないものでした。もしわたしたちがそのように五つのパンと二匹の魚を五千人に食べさせ、満腹させたとしたなら、残り物には気もとめず、踏み付け、捨ててしまうでしょう。このようであるので、わたしもあなたも穀物のささげ物ではありません。しかし、主イエスは穀物のささげ物でした。彼は最も栄光なるときに、最も細かなことに注意を払うことができました。

主イエスが捕らえられ、十字架につけられたときでさえ、彼は人性と、神性がミングリングされ、そして復活を表現する生活をしました。兵卒と、祭司長たちやパリサイ人から遣わされた下役たちはイエスを探しに来ました。イエスは彼らに二度尋ねました、「だれを捜しているのか?」(ヨハネ十八・四)。彼らは答えて言いました、「ナザレ人イエスを」。それからイエスは彼らに言われました、「あなたがたがわたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」(八節)。「この人たち」とは彼の弟子たちを指しています。そのとき彼は、偽弟子の裏切りに忍耐して、兵卒が捕らえようとした時にも、彼の弟子たちを適切に顧みられました。これは穀物のささげ物であり、わたしたちに復活のかぐわしい香りを感じさせます。

彼が十字架につけられた時も、彼は彼の母親を顧みられました。「イエスはご自分の母と、そばに立っている彼の愛する弟子を見て、母に、『女よ、見なさい、あなたの息子です』と言われた。彼はまたその弟子に、『見なさい、あなたの母です』と言われた」(十九・二六―二七前半)。これは穀物のささげ物です。彼はまた苦痛の極みにあるときに、また共に十字架につけられた強盗のことも顧みられました。その強盗は言いました、「イエスよ、あなたがあなたの王国に入られる時、わたしを覚えてください」。そしてイエスは彼に言われました、「まことに、わたしはあなたに言う.今日あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」(ルカ二三・四二―四三)。ここで再び、主が苦難を受けている中で復活が表現されていることを見ます。

たとえどのような環境の中にあっても、主イエスは、苦難を受けられますが、彼は復活のかぐわしい香りのある生活をされます。どこにおいても、どのような時でも、キリストは神性が人性の中にミングリングされた、彼の復活を表現する生活をされます。これが穀物のささげ物です。

神・人のミングリング
レビ記第二章のミングリングに関して、詩篇でも同じことがあります。「わたしは新鮮な油を塗られているのです」(九二・十)。ダービー新訳の「油を塗られている」という言葉の注解は、「厳密には、『ミングリングされている』」と言っています。さらに、レビ記第二章四節の「混ぜ合わせた」という言葉についてのダービーの注解は言っています、「『混合された』、『ミングリングされた』がその言葉の意味である。詩篇第九二篇十節でそれは単に任職のために油塗られるのではなく、彼の全組織がそれによって活気づけられ強められるものである。それは彼の力を形成した。それゆえ、それがそこの『新鮮な油』である」。ですから、このミングリングは人の内なる各部分と要素を活気づけ、強めます。

主イエスは新鮮な油でミングリングされました。すなわち聖霊によってミングリングされました。これは主イエスが人と成り、神の御前で穀物のささげ物として、新鮮な油が彼の中にミングリングされたことの予表です。ですから聖霊と人のミングリングの聖書の中の根拠は、油ときめの細かい小麦粉が調和されたことにあります。召会の初期には、神性と人性のミングリングの事柄について多くの論争がありました。ある神学者たちは、神とミングリングされることについて語ることは人が神になり得るとの信仰、人が引き上げられてかみされるほどまでになり得るとの信仰を暗示していると考えました。ミングリングに関する教えをこのように理解する人たちは、この教えを罪定めしました。最終的に、神学者たちはあえてミングリングするという言葉を用いたり、神性と人性のミングリングについて教えたりしませんでした。

それでは、なぜわたしたちは今日この用語をこのように大胆に用いるのでしょうか? わたしたちがミングリングについて語るのは、そのような啓示が聖書の中にあるからです。レビ記第二章四節の「きめの細かい小麦粉……油を混ぜ合わせた」というこの予表は、はっきりと穀物のささげ物が、キリストの人に属する人性と神の神聖な性質がミングリングされたものであることを表徴していることを示しています。キリストは絶対的に神とミングリングされた人です。彼の人性と神はミングリングされています。すなわち、その霊とミングリングされています。なぜならその霊が彼の中にあるからです。ですから神聖なミングリングを通してキリストの人性が最高の水準にまで引き上げられたことを示します。このように彼は神・人です。

主イエスは肉体と成って人と成られた神ですから、神・人です。彼の神性は彼の人性から分離され得ると、あなたは思うでしょうか? それとも、ミングリングとは別に、彼の神性と人性が単に結合されて彼を神・人にしたと思うでしょうか? もしミングリングがなければ、どうして彼は神・人として生きることができたでしょうか? キリストの神性は彼の人性とミングリングされています。しかしながら、この神性と人性のミングリングは確かに第三の要素、神でも人でもないものを生み出したのではありません。主イエスに関して、神性と人性のミングリングが第三の性質、完全に神ではなく完全に人でもない性質を生み出したと言うことは異端です。これは確かに、ミングリングという言葉に対するわたしたちの理解ではありません。わたしたちはウェブスターの辞書(Webster’s Third New International Dictionary)の定義に同意します。ミングリングする――「互いに、あるいは他の何かと一緒になり、あるいは組み合わさって、その構成要素は組み合わせの中で区別したままである」。そのような二つの要素のミングリングの中で、要素は区別されたままであり、第三の要素を生み出すことはありません。

キリストは神全体であり、また完全な人の両方であり、神聖な性質と人の性質を区別して所有しておられ、第三の性質が生み出されることはありません。これは新約に啓示されており、レビ記第二章の予表で描写されています。この予表において、ミングリングがはっきり記述されています。すなわち、油はきめの細かい小麦粉とミングリングされており、きめの細かい小麦粉は油とミングリングされています。この二つの要素はミングリングされていますが、それぞれの要素の本質は区別されたままであって、第三の要素が生み出されるのではありません。これがミングリングについての正しい理解です。

神のみこころは彼ご自身と人を
ミングリングすることである
創世記第二章は、神が人の命となられたいということを啓示しています。彼は人に彼を礼拝するように命じませんでした。それとは逆に、ご自身を命の木として人の前に置き、人が食べられるようにされました(八―九節)。彼は人に何かを行なうようには命じられず、ただ人に正しく食べるようにと告げられました(十六―十七節)。このことは、神の願いが、わたしたちの中へと入り、わたしたちの命となり、また彼ご自身をわたしたちとミングリングさせることであることを啓示しています。

神と人のミングリングは、神と人の基本的な関係です。レビ記第二章にこの事の予表があります。穀物のささげ物は、きめの細かい小麦粉が油と混ぜ合わされたものです。ですから、穀物のささげ物を食べることは、また油を食べることでもあります。またその混ぜ合わされたものを食べることでもあります。なぜなら、油ときめの細かい小麦粉は分離することができないからです。このことは、わたしたちがキリストの人の生活を享受する道がその霊によることを強く示します。ヨハネによる福音書第六章はこれを証明します。この章で主イエスは、彼は食べることができることを啓示しておられます。「わたしは天から下って来た生けるパンである.だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きる.わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の人の命のために与えるものである」(五一節)。六三節で主イエスはまた言われます、「命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である」。これは、イエスを食べる方法がその霊によることを示します。

わたしたちはその霊によってイエスを食べようとするなら、その霊が今日、言葉の中に具体化されていることを認識する必要があります。わたしたちは言葉に触れるとき、言葉の中に具体化されているものに触れます。イエスを食べ、イエスを取り、イエスを享受するために、わたしたちは彼の言葉に触れなければなりません。彼の言葉に触れるとき、その霊があります。このようにわたしたちの霊を活用して言葉の中に具体化されているその霊に触れることによって、わたしたちはキリストの人の命と生活を食べるのです。

神はわたしたちに一冊の書物、聖書を用意し、それをわたしたちの手に置かれました。彼はまた彼の霊をわたしたちに与えてくださいました。その霊は内側にあり、書物は外側にあります。この二つのものを加えた方が、人の命におけるキリストです。わたしたちは霊を活用して言葉を祈り読みするとき、その霊に触れ、キリストの人の生活を享受します。これが穀物のささげ物です。

わたしたちは自分自身の中で、主イエスのような人の生活をすることはできません。彼だけがそのような生活をすることができます。しかしわたしたちは、いつでもイエスの言葉に来て、霊を活用して言葉を祈り読みすることによって、イエスを取ることができます。わたしたちはこれを実行するとき、その霊に触れ、その霊はわたしたちの養いとしてのイエスをもってわたしたちを供給します。わたしたちは自分が食べるものであるので、イエスを食べれば食べるほど、ますますイエスで構成されます。イエスの人の生活を食べることによって、彼の生活はわたしたちのものとなります。自然に、何の自己の努力もなく、わたしたちはイエスと同じようにへりくだり、聖となるでしょう。これがわたしたちの食物としてのイエスを享受し、わたしたちが資格づけられて神に仕える生活をすることです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第3巻より引用

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