エゼキエル書第四七章は、神の宮から流れ出る一つの流れがあることを語っています(一節)。この流れは実際には全聖書にわたって流れています。創世記でこの流れはすでに神から流れてきて、人の内側に入り人の命となり、人のすべての必要を供給します。この流れはまた命の交わりと神の働きの広がりをもって流れ、最終的に神聖な建造のために、尊い材料を生み出します。
命の流れ
聖書の第一の書、創世記の初めに、人は創造された後、エデンの園の命の木の前に置かれたことを見ます。園には一つの川がありました(第二章八節―十節)。これは一つの絵であり、どのようにして神が来て人の命となり、人のすべての必要を供給するかを表しています。神ご自身が人の唯一の、またすべての供給です。神は人の命となるために、人のところにやって来て、生ける供給として人の中に入らなければなりません。
詩篇第三六篇八節から九節で、詩篇の作者は神を賛美して、「あなたは彼らにあなたの楽しみの川から飲ませられます。あなたと共に、命の源泉があり」と言っています。神は命の源泉であり、この命の源泉から神の楽しみの川が流れます。人はこの神聖な川から飲み、神の喜びを享受し、満足することができます。神の喜びと肥沃さは、この神聖な川の流れに伴います。この川から飲むなら、わたしたちは神の喜びを享受し、神の肥沃さに満足します。神は川の流れのように来られ、人に触れ、喜びと満足を得させました。
新約は、人の命である神はまず御子、わたしたちの主イエスの中で流れたことを語っています。ヨハネによる福音書第四章十四節で、主イエスは言いました、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである」。ですから、主イエスはわたしたちに生ける水を与えることができ、彼が与える水はわたしたちの中で水の源泉となり、永遠の命へと湧き出ます。神は御子の中で、御子を通して流れ出ます。神は命の神聖な水の源泉であり、主イエスは泉です。コリント人への第一の手紙第十章四節によると、キリストはわたしたちのために打たれた岩であり、彼から神聖な命の生ける水が流れて、わたしたちに飲ませます。
このほかに、神は彼の霊の中で、彼の霊を通して生ける水として流れ出ます。主イエスは言われました、「『だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る。』……これを、彼の中へと信じる者たちが受けようとしているその霊について言われたのである」(第七章三七節―三九節)。これによって、聖霊は、神ご自身が生ける水としてわたしたちに流れ出て、わたしたちに届く第二の経路であることを知ります。
ですから、聖書は、神は生ける水の流れのように、命としてわたしたちに来られることを見せています。渇いている者はだれでも主に来て、命の水を値なしに飲むことができ(啓示録第二二章十七節)、永遠において主はなおわたしたちの牧者であり、わたしたちを命の水の泉に導いてくださることを告げています(第七章十七節)。命の水は、わたしたちの命である神ご自身です。わたしたちは彼から飲み、彼の喜びを享受し、彼の肥沃さに満足します。
啓示録第二二章一節は言います、「命の水の川……は神と小羊の御座から、……流れていた」。これは、この生ける水の源泉を見せているもう一つの絵です。それは、神が贖いを完成した救い主、小羊の中で、神の命が支配する権威を伴って、この流れの中で神ご自身から湧き出て流れることを表徴しています。第二二章二節は、命の木が川の両側で成長して、その実を毎月みのらせていると言います。これは、わたしたちの必要を供給するキリスト、命の木が、生ける水、すなわちその霊の流れに沿ってあり、いつでも取ることのできる命の供給となっていることを表しています。
エゼキエル書も、一つの川が神の宮から流れ出ていることを見せています(第四七章一節)。この命の川には死を飲み尽くす力があります。なぜなら、水が流れるところでは、塩水をいやすからです。ですから、この川にはいやす力があります。また、この川には生み出す力もあります。なぜなら、水が流れるところでは、植物の命と動物の命が生み出されるからです。水が流れるところでは、あらゆる種類の木が成長し、さまざまな種類の実を生み出します。さらに、水の中も生き物が群がっています(六節―十二節)。この段落の聖句には神ご自身から流れ出て命をもたらし、わたしたちのすべての必要を供給する流れがあります。これは、いやし、生み出す流れ、死を飲み尽くし、わたしたちに命を供給する流れです。この水が流れるところでは、すべてのものが生きます。ですから、これが一つの命の流れです。
交わりの流れ
聖書におけるこの流れの絵から、それが交わりの流れでもあることを見ることができます。啓示録の中で、新エルサレムの都にただ一つの通りがあり、その通りにも一つの生ける水の流れがあるだけです。この光景を熟考することによって、この流れが交わりの流れであることがわかります。この流れは都全体を流れ、ただ生ける水の流れを通して、あるいはそれによってのみ、都全体は交わりを持ちます。これは、キリストのからだの交わりが、神聖な命の流れであることを啓示しています。神聖な命の流れが流れるところにはどこでも、キリストのからだの交わりがあります。召会の交わりもまた、神聖な命の流れです。神聖な命の流れがわたしたちの中を流れる時、わたしたちの間にからだの交わりがあります。
この交わりはペンテコステの日から始まり、エルサレムからアンテオケに、アジアに、ヨーロッパに、そしてアメリカに、全世界に流れました。わたしたちが享受しているからだの交わりは、非常に重大なことです。わたしたちはからだの交わりの流れの中に自分を保つ必要があります。この流れはただ増し加わっています。それが流れれば流れるほど、ますます豊かになり、大きくなります。
神の働きの流れ
この流れはまた神の働きの流れでもあります。水の流れがあるところに、神の働きがあります。神は神聖な命の流れに沿って働かれます。使徒行伝の記載から、わたしたちはこの絵をはっきり見ることができます。ペンテコステの日に、この神聖な命の流れは、神ご自身から、キリストの中で支配する力を伴って御座から流れ出ました。それはエルサレムから流れ始めました。アンテオケに流れ、アンテオケから西に向きました。それはアジアに流れ、アジアからマケドニアに、そしてヨーロッパに流れました。この水の流れによって、神の働きがあります。神は流れによって働かれます。流れによって神は福音を宣べ伝え、人を救いにもたらされます。
使徒行伝の聖書の中にある二十八の章は、六、七十年間の歴史の記録にすぎません。そこには開始はありますが、結び、終結はありません。最後の一節は言っています、パウロは「大胆に、妨げられることなく、神の王国を宣べ伝え、主イエス・キリストについての事柄を教え続けた」(第二八章三一節)。今日、使徒行伝は依然として継続しています。なぜなら、この命の流れは依然として流れているからです。召会の歴史は、この流れが各世代を経て、今日にまで及び、依然として流れていることを見せています。水が流れる所には、神の命があり、からだの交わりがあり、神の働きもあります。ですから、わたしたちはみなこの流れの中にいなければなりません。もしこの流れの中にいないなら、命の外におり、からだの交わりの外におり、神の働きの外にいます。ああ、ただこの流れの中にいるだけで、わたしたちはすべてを持つのです。もし流れの中にいないなら、転機を持たなければなりません。この流れに向きを変えなければなりません!
宇宙には神聖な流れがあり、それは聖書の始まりに開始し、全聖書にわたって流れています。それは今日なおも流れており、永遠に流れているでしょう。主は、彼が与える水は命の源泉となって、永遠の命へと湧き出ると言われました(ヨハネによる福音書第四章十四節)。この流れは永遠に向かって流れます。ですからこの流れは決して止まることはできず、また止まることはないでしょう。
流れと神の定められた御旨の関係
神の永遠の定められた御旨は、ご自身を人性とミングリングさせることです。彼は今日、この一つの事のために働いておられます。このミングリングは、ある種の結合することだけではなく、それ以上のことです。それは、共にミングリングさせて、ついには二つのものが一になることです。神はこの事を行なうために、わたしたちの中に入って来なければなりません。神がわたしたちの命となる時、彼は自動的にわたしたちとミングリングされます。
聖書の中で神は絵図を用いて、どのようにして神がわたしたちの命となることができるかについて描写しています。この絵図が命の流れです。彼はちょうど水の流れが流れ出て、流れ込むのと同じように、天から流れ出て、わたしたちの中にわたしたちの命として流れ込みます。この流れがわたしたちの中に入って来るには、わたしたちはこの流れから飲む必要があります。主を信じるすべての人の内側にはこの一つの神聖な流れが内に流れています。時には、わたしが休もうとしたり、働きをやめようとしたりするかもしれませんが、わたしたちの内側にはいつも一つの湧き上がる流れがあり、この流れはわたしたちを奮い立たせ強め、わたしたちをやめさせず、この流れにしたがって継続して前進するようにさせます。これは極めて重要な事柄です。
わたしたちは自分自身に尋ねる必要があります。わたしたちの内側にはこの流れが流れているでしょうか? 未信者はそれを持っていません。しかし残念なことに、ある信者たちは、彼らの内側をこの流れが流れているのに、自分自身をその流れの中に保っていません。わたしたちが自分はこの流れの外にいると感じる時、感覚の中の流れが断たれます。ですから、直ちに主に立ち返る必要があります。なぜ内側の流れは、流れることをやめたのでしょうか? わたしたちはその理由を発見しなければならず、その流れが回復するまでそれについて主とやりとりをしなければなりません。もしわたしたちにこの流れが止まるという感覚があるのであれば、あなたはそれをやめなければなりません。この流れを維持するために、わたしたちは主から出ていないあらゆる活動を、すなわち、内側の流れから流れ出ていないどんなこともやめなければなりません。
ただ一つの流れ
神聖な命の流れは、ペンテコステの日に始まり、すべての世代にわたって流れ、今日に至るまでずっと流れている、ただ一つの流れです。それがどこに行っても、どこに流れても、多くの流れではなく、ただ一つの流れです。使徒行伝から見ることができるように、ただ一つの神聖な流れがあります。この流れはエルサレムから始まり、アンテオケに流れ、アンテオケからアジアに向き、そこで流れていました。次にある日、主は流れがヨーロッパに、マケドニアに向くことを願われましたが、その流れの中で働いていた使徒パウロは、それについてはっきりしていませんでした。第十六章で、パウロと彼の同労者はビテニヤに行って、続けてアジアにとどまって働くつもりでしたが、イエスの霊が許さなかったのです。その後に彼は夜中にマケドニアに行くようにというビジョンを見ました。彼は、神の働きがアジアからヨーロッパに向かうことがはっきりするようになり、流れに従って行かなければなりませんでした(七節―十節)。マケドニアから、その流れはコリント、ローマ、スペイン、ヨーロッパのすべてのところへ行きました。召会歴史は、それがヨーロッパから西に、アメリカに流れ、そして西から東に、南に流れたことを告げています。この流れは決して止まったことがなく、この流れがどこに行っても、ただ一つであったことがわかります。それはエルサレムで一つであり、アンテオケで一つであり、アジアで一つであり、ヨーロッパで一つであり、それがどこに流れてもただ一つの流れでした。決して二つの流れはありませんでした。ただ一つの流れがあるだけですから、あなたはこの一つ流れの中に自らを保たなければなりません。
使徒行伝と使徒パウロによって書かれた書簡を読むなら、その当時、福音を宣べ伝え、主のために働いていた実に多くの人が、流れの中にいなかったことを見ます。例えば、ピリピ人への手紙の第一章において使徒パウロは、ある者たちはねたみのゆえに福音を宣べ伝えていたと言いました(十五節)。彼らは福音を宣べ伝えていましたが、使徒と共に働いていませんでした。彼らは福音を宣べ伝えていましたが、聖霊の一つの流れの中にいませんでした。使徒行伝第十五章に、もう一つの例があります。それはバルナバです。初めに、バルナバは使徒パウロと共に働いていました。二人とも一つ流れの中にいました。しかしある時から、バルナバはある理由で使徒パウロと共に行くことに同意しませんでした。二人は争い、分かれてしまいました。その時に分れてから後、使徒行伝にバルナバの記録を再び見いだすことはありません。彼はなおも主のために働いていましたが、すでに流れの外にいました。わたしたちが、もし召会歴史を注意深く学ぶなら、各世代にわたって絶えず聖霊の一つ流れがあったことを見いだすでしょう。多くの人が主のために働いてきましたが、すべての人が一つ流れの中にいたのではありません。わたしたちが主のあわれみと恵みを受け入れるなら、今日なおも流れているその流れの中にもたらされるでしょう。
流れと建造の関係
創世記第二章十節から十二節は、一つの流れがエデンから流れ出て、この流れは金、真珠、赤めのうを産出すると言っています。この絵は、どこであれ流れのある所で、建造のために材料が生み出されることを言っています。これらの貴重な材料は神の住まいの建造のためです。旧約の神の住まいである幕屋は、金などの尊い材料を用いて建造されました(出エジプト記第二五章三節)。そして大祭司の肩当てと胸当ての上には、金にはめ込まれた宝石がありました(第二八章十一節、十九節)。使徒パウロはわたしたちに告げていますが、召会は金、銀、宝石をもって建造されます(コリント人への第一の手紙第三章十二節)。これらの材料は、聖霊の流れの潮流から出て来たものです。啓示録では、新エルサレムの都全体が金、真珠、宝石で建造されていることが語られています(第二一章十八節、二一節、十九節)。これらすべての材料は神聖な命の流れの潮流から出て来ます。
神聖な命の流れのある所に、召会の建造のための材料、尊い材料が産出されるようになります。わたしたち自身は、召会の建造のための材料を決して生み出すことができません。神聖な命の流れ、聖霊の流れだけが、この事を行なうことができます。それは各世代を通して流れてきて、今日も流れています。そしてこの流れが到達する所には、金、真珠、宝石が神の建造ために生み出され、神の定められた御旨を完成します。
どうか主がこの絵によってわたしたちを深く印象づけてくださいますように。どうか主がわたしたちを、絶えず命の流れの中に保ってくださいますように。今日わたしたちが行なわなければならないことは、ただ流れに従うことであり、ただ聖霊の働きの流れに服従することであり、何の個人的な自由もありません。そして主と共に行く準備ができており、この流れに自由に流れさせ、わたしたちの内側には何の妨げもありませんように。この流れが行くどんなところへも、わたしたちはみな従います。ある詩歌の言葉は次のように述べています。「わたしたちは思うままに走るのではなく、主の導きに従います。生ける水が流れる所で、心の中に光を持つようになります」(詩歌六五〇)。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第2巻より引用