エゼキエル書は、神の聖なる建造のビジョンで終わります。これは建造ということが、実に神のみこころの中にある大いなる事であることを表しています。ここでは、聖書全体を貫いている建造の路線から、神のみこころの中の建造が、どのようにサタンの破壊を経て回復されて、しかも究極的な完成に至るかを見ます。
聖書は、神は創造の働きを終えられた時に、安息されたと言っています(創世記第二章二節)。しかしイザヤ書第六六章で、神はまた言っておられます、「天はわたしの座、地はわたしの足台である。……わたしの安息の場所はどこにあるのか?」(一節)。この言葉は、神は天と地を創造されましたが、それだからといって、決して宇宙において安息の場所を得られたわけではないことを証明します。これはとても大きな問題です。神には居場所がありません。神は帰るべき家のないお方なのです。それゆえ聖書は、創世記から啓示録まで何度も人に向かって、神が宇宙においてなすべきことは、ご自分の住まいを建造することであると示しています。
命の建造とサタンが先手を打って作った偽物――
創世記第二章から第十一章
創世記第二章は一つの絵です。初めに、一本の木がそこに生えていて、一つの川がそこに流れていました。木と川はどちらも命を象徴しています。この川が流れる所には、金、ブドラク、宝石がありました。これらはすべて建造の材料です。神の建造は、彼ご自身が命と命の供給として、人の中へと入って成されるものです。しかしこのことが完成する前に、サタンが来て、神が得ようとしておられた人を欺きました。神は堕落したアダムを、彼のささげ物を通して贖いを得させて、神の御前へと戻らせました。しかしサタンはまた来て、アダムの子、カインに神の救いの道を拒絶させました。その結果、人はサタンの手の下に陥ってしまいました。
カインはサタンに用いられて、聖書における最初の町、エノクという町を建てました(創世記第四章十七節)。この町は神の建造の偽造品であり、人類が自分で生み出した文化であり、自分の生存のために生計を立て、サタンと完全に協力して、神に対して独立することの始まりでした。神が得ようとしておられる建造は、人と神の結合であり、神が人の内側で表現されることです。そしてエノクの町は、サタンが人の内側で表現されることであり、この町から発展して、全地に強暴がこの上ないほどに満ちてしまいました。神はもはや容赦できなくなって、洪水をもって地を滅ぼされました。しかし神はノアの家族、八人をその中から救い出して、彼らが新しい立場で神に仕えるようにされました(第七章二三節)。
しかしながら、人はまたもやサタンにそそのかされて、「さあ、町と塔を建てて、塔の頂を天に届かせよう。そしてわたしたちのために名を挙げて、わたしたちが全地の面に散らされないようにしよう」と言いました(第十一章四節)。それがバベルの町です(九節)。これはサタンの第二の町であり、人が自分を神に代わって高く上げて、集団で神に背いた代表的なものです。サタンと人が連合して、神に対する反逆が頂点に達したので、神は強いられてやって来て、人の言語を混乱させて、彼らを散らされました。これらはすべて、神がご自身の建造を完成される前に、サタンが先手を打って作った偽物であり、神の意図を破壊しました。
神の選びとサタンの横領――
創世記第十二章から出エジプト記第十三章
神がバベルを裁かれた後、その地において、またそれらの反逆的な人々の間から、アブラハムを選ばれました。神は彼を召し出して、彼の地、彼の親族、父の家から出て、カナンの地へ行くように告げられました。神は、彼と彼の子孫にカナンの地を約束されました(創世記第十二章一節―三節)。この地は建造のための基礎であり、この一群れの人たちは建造の材料でした。つまり、神はアブラハムの子孫がカナンの地で、建造されて神の住まいとなることを意図されたのです。しかしながら、アブラハムと彼の子イサクは、この約束の実現を見ませんでした。イサクの子ヤコブが、自分の兄を怒らせたために、遠い地に逃れて行くと、神はやって来て彼に出会い、神の建造を啓示されました。ヤコブが家から離れて荒野で夜を過ごしている時、彼は石を枕にして眠りました。そして一つのはしごが天に達しており、神の御使いたちがその上を上り下りしている夢を見ました。しかも神ははしごの上から彼に語られました。彼は眠りから覚めると、この場所は天の門であると言いました。彼はこの場所の名をベテル、すなわち神の家と呼びました。同時に、彼が枕としていた石を取り、それを柱として立て、その頂に油を注いで、この石を神の家とする、と言いました(第二八章十節―二二節)。この時点で、宇宙において家を持つという神の願いが啓示されました。
ヤコブはこの夢を見、このビジョンを得ましたが、飢きんのゆえに、彼の息子たちと共にエジプトに下って行き、神の啓示を全く忘れてしまいました。彼の子孫はエジプトで食べる事柄だけを顧みたために、サタンは神の民、すなわち神が建造の材料として準備された人を、エジプトで横領してしまいました。パロはイスラエルの民に粘土とわらを用いてれんがを作らせ、町を建てさせました(出エジプト記第一章十一節)。イスラエルの民はもともと神の民であり、神のために住まいを建造するべきでした。しかし今やそれどころか、パロのために二つの町を建ててしまいました。神の建造は、金と宝石でなされますが、エジプトの町はバベルの町のように、粘土のれんがで建てられました。バベルは神の建造に敵対しており、エジプトもまた別の方向で、神の建造に敵対しています。
神の救いの成就とサタンの破壊――
出エジプト記第十四章からサムエル記上第四章
神の建造の材料は、エジプトにおいてサタンによって横領されました。もちろん神はそれを容認することができず、介入してイスラエルの子たちをエジプトから救い出して、彼らが幕屋を建てるようにされました。幕屋の中のすべての調度品や板は、金で覆われており、大祭司の胸当てと肩当てには、金と宝石がはめ込まれていました。実際のところ、これは神の住まいの一つのしるしであり、神の建造のひな型にすぎません。しかしながら、神の目から見ると、神の幕屋がイスラエルの子たちの間にあったことは、彼らが神の霊の家であり、この一群れの人たちが互いに組み合わされ建造されて、神の住まいとなるということでした。それゆえ幕屋が建て上げられた時、神の栄光が幕屋を満たしていたのです(出エジプト記第四〇章三四節)。この時点で、神の願いは象徴において成就されました。
幕屋が建てられてから、神はイスラエルの子たちを導いて、戦って敵を打ち破り、カナンの全地を所有し、その地をイスラエルの各部族に分配して、さらにシロで幕屋を建てました。この時になって初めて、神はご自分の約束を成就され、しかも神が地上で確固とした住まいを得られたと言えます。しかし間もなくサタンがまたもややって来て腐敗させ、特に幕屋で奉仕する祭司を腐敗させました。エリの家が腐敗しただけでなく、イスラエルの家も腐敗しました。その結果、契約の箱は奪われ(サムエル記上第四章十一節)、幕屋も荒れ果てました。これはサタンの腐敗です。サタンが神の地上における建造、すなわち神の家を腐敗させることでした。
神の勝利とサタンの破壊――
サムエル記上第四章から歴代志下第三六章
サタンは祭司の務めを腐敗させましたが、神は別の面から、自発的に献身する者――サムエルを興されました。彼の務めのゆえに、ダビデ王がもたらされました。ダビデには神のために宮を建造して、神の契約の箱が安息する場所を得たいという心の願いがありました。彼は熱心に材料を準備しましたが、神は彼の子ソロモンに聖なる宮の建造を完成させられました。宮は幕屋よりさらに堅固で、さらに具体的な住まいです。ですから宮の建造が完成したその日、神の栄光がかつてない方法で宮を満たしたのです(歴代志下第七章二節)。
しかしながら、すばらしい状況は長く続きませんでした。サタンは幕屋を腐敗させたと同じように、宮も破壊しました。ソロモンが晩年に堕落したことによって、イスラエルの国は分裂し荒廃して、諸国からの攻撃を招きました。その後バビロン人がエルサレムの町を破壊し、宮を壊し、イスラエルの子たち(アブラハムの子孫)を、バビロンへと連れ戻しました。それだけでなく、神を礼拝するための宮の中の調度品もバビロンへと運び去られ、偶像の宮に置かれました。これらすべては、バビロンがどのように神の建造に反対しているかを見せています。
神の回復の建造――
エズラ記、ネヘミヤ記またその他の各書
イスラエルの子たちの捕囚の七十年間が満ちた時、祭司の子孫エズラは一群れの人々を聖なる地に連れ戻して、新たに聖なる宮を建造しました。また王の子孫ネヘミヤは、一群れの人たちを連れ戻して聖なる都を建造しました。ネヘミヤは民を率いて城壁を修復して、あらゆる破れ口をふさぎました。敵の破壊に立ち向かって、彼らは一方の手で工事をし、もう一方の手で武器を握っていました。彼らは城壁が完全に連なるまで、一方で建造しながら、一方で戦っていました。イスラエルの子たちの回復は、建造の回復でした。これは旧約の最後へと至ったということです。
旧約での主要な事柄とは、幕屋と宮の物語の記載です。というのは、神は旧約の歴代の働きにおいて、一つの住まいを建造して、人と共に住むことを願われたからです。敬虔な詩人また預言者たちはみな、彼らの発表において、神の宮に住むことを渇望しました。なぜなら彼らは宮を通してのみ、神と結合されることを知っていたからです。しかしながら、幕屋であれ、宮あるいは都であれ、すべては神の住まいの象徴であり、神の建造の一枚の絵にすぎません。
召会の建造――福音書と書簡
新約に至ると、神は自ら人の内側へと入ってきて、人とミングリングして、この建造の実際を完成されました。ヨハネによる福音書第一章十四節は、「そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた」と言っています。これは、主イエスが神の幕屋であり、神の宮であることを啓示しています。ある日、ユダヤ人が彼にどんなしるしを見せてくれるのかと尋ねた時、彼は言われました、「この宮を壊しなさい。そうすれば、わたしは三日のうちにそれを起こす」(第二章十九節)。ユダヤ人はこの言葉の意味がわかりませんでした。彼らは目の前にある、ヘロデ王が造った宮しか見ていませんでした。(第一の宮はソロモン王が建造しましたが、後ほどバビロン人によって壊されました。第二はエズラが捕囚から帰ってきた後、再建されましたが、規模はとても小さいものでした。第三の宮はヘロデ王がユダヤ人に気に入られるため、第二の宮を再建、拡大したものでした)。ユダヤ人は主に言いました、「この宮を建てるのに、四十六年もかかっています。それなのに、あなたはそれを三日のうちに起こすのですか?」(二〇節)。彼らは、主がご自分の体の宮のことを言われたのがわからなかったのです。彼の中には神がおられたので、彼は神の宮でした(二一節)。
主は、彼の体は神の宮であると言われました。それでサタンは、イエスというこの人を殺せば、神の宮を壊すことができると思いました。弟子のユダに主を売らせ、民を挑発して、主を十字架に釘づけました。知っているように、三日の後、主は死から復活されました。主はもともと一粒の麦でしたが、死と復活を経過して、多くの実を結ぶようになられました。初めは主だけが宮でしたが、復活を通して、彼は彼に属する人に命を分け与えて、彼らをも神の宮とならせました。この宮は小さなものから大きなものへと拡大しました。これが、主の「この宮を壊しなさい。そうすれば、わたしは三日のうちにそれを起こす」と言われた意味です。
主が復活された後、彼の体は奥義的なからだになりました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネはこのからだの中にいます。恵みにあずかったあなたもわたしも、みなこの中に含まれています。このからだは無限のからだであり、また無限の宮です。このからだは神の召会です。使徒パウロは言っていますが、主は復活して昇天された後、ある人たちを使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者として与えられました。これらすべての賜物は、彼のからだ、すなわち召会を建造するためです(エペソ人への手紙第四章十一節―十二節)。彼はまた、すべての救われた人たちが建造されるようにと、「使徒たちと預言者たちの土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身が、その隅の石です。その方の中で、建物全体が共に組み合わされ、主の中にある聖なる宮へと成長していき、……共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至るのです」と言いました(第二章二〇節―二二節)。しかも、「しかし、主に結合される者は、主と一つ霊になります」(コリント人への第一の手紙第六章十七節)。ですから、この建造は人と神との霊の中での結合であり、人と神が一つ霊となることです。このミングリングされた霊が、聖霊の宮であり、召会でもあります。神が中におられ、人も中にいて、人と神が互いに住み合います。これこそ、神が新約時代においてなさる建造の働きです。
建造の完成――啓示録
召会が建造されていき、最後に新エルサレムの都が出現します。新エルサレムは、サタンが建造しているバビロンとは、常に反対のものです。ですから啓示録に至ると、そこには二人の女と二つの都があるのです。一方は遊女、すなわちバビロンの都であり(第十七章一節、五節)、もう一方は聖なる花嫁、すなわち新エルサレムです(第二一章九節―十節)。新エルサレムの都は神と人の結合であり、バビロンの都はサタンと人の結託です。神が今日地上で行なっている働きは、新エルサレムの都を建造することです。サタンが今日人々の間で行なっている働きは、バビロンの都を組織することです。新エルサレムが神の住まいであるように、バビロンはサタンの住み家です。新エルサレムが人の間での神の表現であるように、バビロンは人の間でのサタンの現れです。しかしながら、最後に神はバビロンを滅ぼし、新エルサレムが出現します。
聖書の初めには命の木と、金、真珠、宝石などの材料があります。最後に、純金、真珠、宝石で建造された都が出現し、その内容としての命の木があります。これが、神が宇宙において獲得したいと願っておられる建造です。聖書の最後にあるこの都は、神の幕屋すなわち神が地上で人々の間に住まわれる所であり、また神がめとりたいと願っておられる花嫁でもあります(啓示録第二一章二節―三節)。この都は、旧約と新約において救われたすべての人が、共に建造されて成っています。これは神が歴代の働きを通して人を救い、導き、成就された最終の結晶です。また神と人がミングリングされた、神の永遠の住まいとしての建造です。どうか、わたしたちすべてがこの建造に分を持ちますように!
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第2巻より引用