イスラエル人は堕落し捕らわれました。彼らを神の当初の心の願いの中へと回復するには、神の裁きを経過しなければなりませんでした。それゆえ、エゼキエル書はイスラエル人が捕らわれた地で書かれた書であり、裁きについて語っている大きな区分があります。神の裁きはすなわち彼の回復のためです。
エゼキエル書はイスラエル王国が堕落し、バビロンに捕らえられていた時期に書かれており、その内容は大きく四つの区分に分けられます。第一区分は第一章で、おもに神の栄光のビジョンを語っています。第二区分は第二章から第三二章で、神の裁きを語っています。第三区分は第三二章から第三九章で、神のレムナント(残された者)の回復を語っています。第四区分は第四〇章から第四八章で、神の建造のビジョンを語っています。
この順序から言うと、まず第二区分の裁きを経過しなければなりません。そして第三区分の回復と第四区分の建造に至ります。言い換えると、イスラエル人を神の当初の心の願いへと回復するには、神の裁きを必ず経過しなければならないということです。裁きは消極的ですが、必要なことでもあります。
神の裁きはまずイスラエル人から始まりました。第二章から第二四章で、裁きは完全にイスラエル人に向けられています。第二五章から、神の裁きは異邦人に向きを変えています。これは新約の原則と同じで、神の裁きは神の家から始まります。エゼキエル書は、裁きがまずイスラエル人から始まったことを語り、その後に、諸国民について語っています。啓示録もまた、裁きはまず召会から始まって、その後地上の万民について語っています。わたしたちがもし霊的な光を持つなら、エゼキエル書の中のイスラエル人に対する神の裁きを見いだすことができ、その原則は完全に今日の召会の上にも応用できるでしょう。なぜなら、エゼキエル書が描写しているイスラエル人の事柄は、完全に、新約に描写されている召会の事柄と対応しているからです。
神のイスラエル人に対する裁き
イスラエル人の神の心の中での地位
エゼキエル書第二章から第二四章で、神は彼の民を裁きましたが、これらの裁きの言葉の中で、神は同時に多くの言葉を語り、わたしたちに神の心の中にあるイスラエル人の地位がどんなに超越していて独特であるかを見せています。この点に関して、わたしたちは三つの項目を語ります。これらを理解するなら、わたしたちは彼らの堕落がどんなに深いかわかるでしょう。
第一項目は、イスラエル人はもともと神の選びの民であり、聖なる宮と都を中心とした(エゼキエル書第二〇章六節、十五節、二八節)、良き地に住んでいました。選びの民とはすべての民と分けられており、神がすべての民からえり抜いたものです。新約の信者も神がすべての民からえり抜いた選びの民です。良き地はキリストを予表します。イスラエル人はエジプトで奴隷でしたが、神は彼らを救われ、彼らを良き地に入れられました。信者はもともとエジプト、この世で悪魔の奴隷でしたが、神はわたしたちを悪魔、この世から救い出し、わたしたちをキリストの中へと置かれ、良き地に住まわせました。イスラエル人はカナンの地に住んで、良き地の豊富を享受しました。同じように、今日わたしたちもキリストの中に住み、彼の供給を享受しています。イスラエル人の間には聖なる宮がありました。聖なる宮の意義は神の家であり、そこには神の臨在があります。聖なる都は聖なる宮の拡大であり、神の権威を予表しています。今日、召会は一面で神の家であり、もう一面で神の王国です。信者がキリストの中で享受する時、召会は神の宮であり、神の臨在があります。また神の都でもあり、神の権威と管理があります。
第二項目は、イスラエル人はもともと神の栽培するぶどうの木でした(エゼキエル書第十五章二節、六節)。ぶどうの木は神の民が神の顧みの中で神と結合していることを指しています。ヨハネによる福音書第十五章で主は言われました、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である」(一節)。このぶどうの木は神の顧みと栽培の下で生み出されるものであり、それは栄光のキリスト、神の御子と、彼に属するすべての人が、共に結合されて構成しているものです。今日の召会も同じように、キリストの中に置かれ、神の恵みの顧みと培養があり、わたしたちをキリストと結合しています。
第三項目は、イスラエル人はもともと神の配偶者であり、神の愛の対象と満足でした(エゼキエル書第十六章八)。新約時代、最も神の心を満足させるのは召会です。召会は神の配偶者であり、キリストの心の中の愛の対象と満足です。神の民の霊的な光景が正常な時、彼らはこのような人たちです。
イスラエル人の荒れ果て腐敗した状況
イスラエル人はこのような超越した地位を持っていましたが、エゼキエル書第二章から第二四章の神の裁きの言葉の中から、彼らの腐敗した状況を見ることができます。第一に、彼らはみな偶像に従い、諸国民と結び付き、邪悪なことを行ない、淫婦となりました(第六章九節、第八章五節―十八節)。彼らの堕落は偶像礼拝から始まりました。偶像とは神以外の事柄で人を占有するものです。召会もここから堕落します。啓示録第二章から第三章の七つの召会の堕落の原因も、偶像を持ったことでした。諸国民はこの世を指しています。信者がいったん偶像と関係を持つと、必ずこの世と結び付き、この世的になり、淫婦になってしまいます。
第二に、彼らは諸国民の悪い規定に従いました(エゼキエル書第十一章十二節)。人はある人と結婚すれば、その相手の人の規定に従います。悪い規定はすべて神に相反し、神に逆らうものです。今日、ある信者の生活、装いはみなこの世の風習に従っており、それは悪い規定です。神はこの世から召会を選び出し、キリストの中に置かれ、地位は聖別されています。しかし召会がもしこの世と結合するなら、それはこの世の人のすべてと神に逆らう悪い規定に従うことです。
第三に、その結果、全イスラエル人は荒れ果て腐敗しました。イスラエル人の中の祭司は神に特別に選ばれ神に仕える者でした。しかし祭司は律法を犯し、聖なるものと汚れたものを区別しませんでした(第二二章二六節)。さらに、支配者である、神の権威を代表する者は民を治めるどころか、民から横領しました(二七節)。また預言者も同じように神に反逆し、財宝を強奪し、きつねのようでした(第十三章四節)。同じように新約の中でも、召会の中のある人たちは本来、神に代わって語るべき人が神に反逆し、利益のために神の言に混ぜものをしたと言っています(コリント人への第二の手第二章十七節)。
また民の間の長老は、彼らの心の中に偶像があるのに、預言者エゼキエルに来て神に尋ねています(エゼキエル書第十四章一節―五節)。多くの時わたしたち自身の状況もこのようです。わたしたちの心の中には偶像があるのに、外側では神に尋ねる振りをします。もう一度言いますが、民は強奪を行ない、物をかすめます(第二二章二九節)。コリント人への第一の手紙第六章の問題のように、召会の中のある兄弟が異邦人の裁判官に告訴し、兄弟の利益を手に入れています。さらに、彼らの心は利得を追っていて、ただ利益をねらっています(エゼキエル書第三三章三〇節―三三節)。このようにイスラエル全体は荒廃し、腐敗しました。ですから神はバビロン王にイスラエルを攻めさせ、エルサレムを大殺戮に遭わせました。この時、神が彼らの身の上に与えた懲らしめと懲罰は頂点に達しました。
裁きの根拠
神が宇宙において人に現れる光景は、御座は青色で、義を表徴しています。神ご自身の性質は金であり、栄光を表徴しています。彼が行動して現されるとき、それは火であり、聖を表徴しています。ですから神は彼の栄光、聖、義にしたがって、イスラエル人を裁かれます。
神の栄光
エゼキエル書第八章がはっきりと言っているように、イスラエル人の間の偶像は神の栄光を犯しました(二節―四節)。わたしたちが神以上に愛し慕うものがある時、礼拝するものがある時、それはわたしたちの偶像です。偶像は一面、神のねたみに触れ、もう一面で、神の栄光を犯します。神の栄光はすなわち神の現れです。もし人が偶像を持ち、それを神以上に貪欲に愛するなら、神の栄光は人の上に現れ出ることはできません。このゆえに神は彼の栄光にしたがって裁き、またわたしたちの身の上の偶像を取り除きます。
神の聖
神の聖の裁きは神の聖の火が来て、わたしたちの不純なものを焼き、除き去ります(第十章二節、第五章四節)。ある信者には明らかな偶像はないかもしれませんが、彼らの状況はまだ混ぜ物があり、天然的で肉的で、この世の不純なものがあるかもしれません。これらの不純物は、神の火が焼き、溶かし、除き去ります。ある時、わたしたちは神の懲らしめに遭遇します。悪いことをした時はもちろん、良いことをした時にもです。なぜなら、この良いことの中に不純なものがあるからです。自己の成分が明らかにされて、神の火が来て、神に適さないすべてのものを焼き、わたしたちを神の聖に符合するようにさせます。
神の義
人の行なう不公正と不義、当然与えるべきものを与えないこと、得るべきでないものを得たこと、これを不義と言います。イスラエル人の中には詐欺、強奪、人をだまし、人を腐敗させることがありました。これらはみな不義です。神の義の御座はこれらを絶対に許容しません。ですから神は彼の義にしたがって裁かれるのです(第十八章三〇節、二〇節)。人がもし神の御座を認識するなら、その人は絶対に人の利益を手に入れようとすることはなく、。絶対的に義であるでしょう。
裁きの手段
神の裁きの手段は、剣、飢きん、疫病、また野獣によるものでした(第六章十一節―十二節、第十四章二一節)。剣とは戦いのことであり、悩まし、殺すことを表徴します。神の民の間にもし偶像があるなら、かす、不公正、不義で満ちており、そこには必ず悩ますことがあり、調和がなく、互いに争うでしょう。戦いがある時、続いて来るのは飢きんです。飢きんは霊的食糧の欠乏、キリストと神の言葉の供給の欠乏を表徴しています。飢きんがあると、各種の疫病もやって来ます。これは霊的には、各種の霊的な病気を指しています。野獣は凶悪人を指しています(参考‥使徒行伝第二〇章二九節)。召会が神の語りかけの供給に欠ける時、信者は必ずあらゆる病気になります。ちょうどインフルエンザと同じように、人に伝染します。これが疫病です。霊的な疫病が聖徒たちの間に流行すると、悪い人が出てきます。野獣のように人を飲み尽くします。これはみな神の裁きと懲罰です。
裁きの結果
散らされて、良き地を失う
神は四つの災害を用いてイスラエル人を裁きました。神は残った人たちを諸国に散らし、良き地を失わせました。霊的には完全に地の勢力に捕らえられ、キリストを離れ、キリストの享受を得られないことを意味します。これは神の民がカナンの良き地の豊富を享受できなくなり、さらに地の権勢の下で捕虜となり奴隷となったことを語っています。
神の栄光が去る
イスラエル人は戦争、飢きん、疫病、野獣を経過して殺され、残った人たちも諸国に捕虜とされ、良き地を離れ、神の栄光は都から出て、天に戻りました(エゼキエル書第九章三節、第十章四節、第十一章二二節―二四節)。
イスラエル人の歴史において、神の栄光は二度彼らに来ましたが、二度とも離れました。彼らがシナイ山のふもとで幕屋を造り、幕屋が建て上げられた時、神の栄光が幕屋を満たしました(出エジプト記第四〇章三五節)。それは神の栄光の第一回目の到来であり、この後ずっと彼らと同在しました。エリの時代に、彼らは契約の箱を持って戦いましたが、打ち破られ、箱は奪われ、神の栄光がイスラエルから離れました(サムエル記上第四章二一節)。一定の時間が過ぎ、ソロモンが神のために宮を建造し、宮が完成した後、神の栄光は再び来て満たし、彼らと同在しました(歴代志下第七章一節)。その時からエゼキエルの預言まで、宮は壊され、神の栄光はまたイスラエル人を離れました。これは神の栄光の第二回目に離れたことです。今日について言えば、召会の中にもし争いが満ち、神の言葉に欠け、キリストに欠け、神の子供たちがこの世に捕らわれるなら、キリストの中にありません。この時、神の栄光も彼らを離れ去るでしょう。
都と宮が破壊される
裁きの最後の結果は、宮と都が破壊されることです(エゼキエル書第七章二〇節―二二節、第二四章二一節、第三三章 二一節)。神の民が正常な状態にある時、神の家、神の同在があり、また神の王国、神の権勢があります。しかし神の民が荒廃したことによって、神の栄光が離れました。神の同在と神の権勢も破壊されました。今日召会の中の状況もこのようです。召会の光景がもし正常であるなら召会は神の宮、神の家であり、神の臨在と支配と権力があります。しかし召会が荒廃している時、集会に来ても、神の臨在も支配もないと感じます。
諸国に対する神の裁き
イスラエルの四方を取りまく諸国は神とイスラエルについての態度も正確でないので、神はまた諸国にも裁きを起こされます。
裁きの対象
イスラエルのほかに多くの国がありましたが、エゼキエル書には、ただ七つが代表として選ばれました。ここの意味は、地上の諸国のこの七つの状況はすべての諸国の縮図であるということです。この七つの国とはアンモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ツロ、シドン、そしてエジプトでした。アンモンとモアブは兄弟であり、近親相姦から生まれたロトの子孫でした。エドム人はエサウの子孫であり、イスラエル人と非常に近い血統でした。ペリシテ人はイスラエルの国境で混ざっていて、イスラエル人ととても近かったのです。この七つの国の中で、アンモンとモアブは一組、エドムとペリシテは一組、ツロとシドンも一組、このほかにエジプトでした。
アンモン人――エゼキエル書の記載によると、神の聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、アンモン人「あは!」と言い、幸いでした(第二五章二節―三節)。神の聖所は肉体と成り、幕屋を張り、人の間に住まわれたキリストを指しています。彼は神の幕屋であり聖所です。神の聖所が汚されるとは、肉体と成ったキリストが人によって汚されることです。イスラエルの地は神の子たちの享受としてのキリストのすべての豊富を指しています。それはキリストの中の神の恵みです。ユダの家は召会を表徴します。アンモン人は肉体と成ったキリストを憎み、キリストの中にある神の恵みを憎み、彼の召会を憎む人を表徴しています。彼らは神に逆らい、キリストを汚し、地上の召会を破壊します。
モアブ人――世俗と友になること、この世との連合、召会をこの世の中に引きずり込むことを喜び、召会が万民から分離されることを願わない人を指します(第二五章八節、十一節)。例えば、最初に一、二世紀、ローマ帝国は力を尽くしてキリストを汚し、召会を迫害しました。これはアンモン人です。しかし二世紀が過ぎたころ、ローマ皇帝コンスタンチヌスが起こされると、モアブ人のように、召会をこの世の中へと引きずり込み、召会を諸国とほとんど同じものとしました。歴代の召会が地上で出遭った困難は、一面ではアンモン人の迫害と抵抗であり、もう一面ではモアブ人による連合であり、召会をこの世へと引きずり込むものでした。
エドム人――絶えずユダの家の敵となり、ユダの家を攻撃します(十二節―十四節)。旧約の予表によると、エドムは信者の古い人を指しています。わたしたちの古い人は召会の敵となります。イスラエル人はヤコブの子孫であり、エドム人はヤコブの兄のエサウの子孫です。ですから彼ら二グループの人は非常に近いのです。わたしたちの古い人とわたしたちの新しい人もとても近いです。二千年来、召会は絶えず古い人のねたみと攻撃を受けてきました。エドム人は新しい人の敵となり、召会を攻撃する古い人を表徴します。
ペリシテ人――召会の敵となり、召会を破壊する天然の人を表徴します。地理上、ペリシテの地はイスラエルの地の国境にあり、彼らはイスラエル人と混ざり合っていて、常にイスラエル人が神に仕える事柄に干渉します。当初、契約の箱はペリシテ人によって奪われました。これは召会の中に、一部の天然的で魂的な人がいて、常に霊的な事柄に干渉し悩ませるということです。古い人と天然的な人をどのように分けるのでしょうか? 例えば、聖徒たちが一緒に取り組む時、ある人は高ぶって指導者になりたがります。これは古い人です。また、ある人は古い人の肉と血気はなく、かえって天然の聡明さ、手腕と有能さを持っています。奉仕において聖霊と神の語りかけに頼らず、自分の聡明さと手腕に依存します。これが天然の人です。これらはみな召会を破壊へ至らせます。
ツロ人――第二六章から第二八章で、ツロは売買と金銀と享受で満ちていたと言っています。彼らはもっぱら商売だけを顧み、ただ地上の富を享受することを顧み、霊的な事物は顧みず、召会が破壊されることを願い、そして自分が豊かになりたい人を表徴しています。このような人の多くは聡明で高ぶっている人です。ツロ王は自らを高い地位に置き、さらに自分を神とみなしました。これゆえ聖書の中でツロ王はサタンの具体化とされています。ツロ人はただ高ぶりを享受することを顧みただけでなく、サタンで満たされ、サタンの具体化となりました。
シドン人――地の富を享受することを顧みたために、召会に対して突き刺すいばらと、痛みを与えるとげとなった一グループの人たちを表徴しています(第二八章二二節―二四節)。いばらは富の惑わしを指しています(マタイによる福音書第十三章七節、二二節)。この世の財産はクリスチャンにとっていばらであり、主の言葉をわたしたちの内側で成長できなくさせ、この良き地としてのキリストを享受できなくさせます。
エジプト人――自分の能力に頼る人を表徴しています。彼らは地上の資源を開発し、豊かになり、権勢を持ち、おごり高ぶり、他の人のよりどころとなり、人に神を必要とさせず、神に信頼させません。エジプトの王は言いました、「わたしのナイルはわたしのもの。わたしがこれを自分のために造った」(エゼキエル書第二九章三節)。これが意味しているのは、地上のナイル川は十分であるということです。人は地上の資源に依り頼み、その開発により、豊かになり、人に権勢を持たせ、神に依存させません。イスラエル人は欠乏するたびにエジプトへ行きました。しかしイスラエル人がエジプトに依り頼む時、自分の罪科を思い起こしました(十六節)。この世は必ず罪悪とつながっています。人が一度この世に依り頼むなら、必ず罪悪に汚染されます。しかし神はエジプトを地の最も低い部分に渡し(第三一章十四節)、地のシェオール[陰府]に落としました(十五節―十七節)。
裁きの方法
神が諸国を裁く方法は、第一にこれらの人たちを滅ぼすことです(第二六章二節)。第二に彼らを荒れ果てさせました(第二五章十三節)。ローマ帝国、コンスタンチン、歴代の召会の中の旧創造、天然の人はみな荒れ果てました。第三に古い人を対処しました。歴代、神は聖徒たちを通して古い人を対処しました(第二五章十四節)。第四に権勢を持つこの世を極めて低くされました(第二九章十四節)。第五に神は召会の敵であるすべてを滅ぼし、絶滅させました(第二五章七節、十六節)。第六に焼き尽くしました(第二八章十八節、第三〇章八節)。すなわち滅ぼし尽くされたことを意味します。第七にハデスに、地の低い部分に入れます(第二六章二〇節、第三一章十五節―十八節)。ネロはローマ帝国が召会をひどく迫害した時の一人の皇帝です。ただし彼は今ハデスにいます。あの地上の王たち、神に反対し、イスラエル人を腐敗させたすべてのものを、神は地の低い部分である、ハデスに落とします。
イスラエル人と諸国に対する裁きの結果
イスラエル人に対してであれ、諸国に対してであれ、共通の裁きの結果は、第一にイスラエル人と諸国に神は神であることを知らせることです(第六章七節、第二五章七節、第二八章二二節)。エゼキエル書では少なくても六十一回は言っています、彼らは「わたしがエホバであることを知る」。神の裁きは神ご自身を明らかにして、人に彼が神であることを知らせます。この世の歴史と召会歴史は人に、歴代において神は裁かれてきたことを見せています。終わりが来たとき、人はみな、人類歴史の中には一人の支配者がいてすべてを管理しており、人はみな神の裁きの下で服することを認めるでしょう。神の裁きは人に神が神であることを知らせます。
第二の結果は、これらの裁きは神の心の願いとご計画を成就します。神が裁きを行なうとき、神は彼の子供たちにはあわれみを持っておられ、見張り人を立てて神に代わって警告させます(第三章十七節-二一節、第十四章六節)。二千年来、神は一面裁き、もう一面で見張り人を立てて警告してきました。そのほかに、神はまた回復を約束されました(第十一章十七節―二〇節、第二八章二五節―二六節)。神はまことにひとりの慈愛とあわれみの神です。神の民に対して裁きを行ないますが、裁きの後、まだあり余る恵みがあり、彼は一部分の人を残しておかれ、聖なる地へと戻し、彼の心の願いとご計画を成就されます。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第1巻より引用