召会はキリストの団体的なパートナーである

真理

聖書は、神の子供たちとキリストが共に相続人となることを啓示しています。
共に油塗られ、キリストの団体的なパートナーであり、
神の宇宙の事業において、キリストと協力し、共に働き、神の栄光が表し出されます。

神の相続人とキリストのパートナー
神は宇宙の中で大きな経営をしておられます。この経営の目標は、栄光ある表現を達成することです。この栄光ある表現が、わたしたちがみな入ろうとしている目標です。神の御子イエス・キリストが定められたのは、神のご計画を達成するためであり、そしてこの目標と事業を経営されるということを見る必要があります。キリストは永遠の過去、この任務に定められ、時間の中で油塗られました(ヘブル人への手紙第一章九節)。その油塗りは、天的で、神聖な務めの開始でした。父なる神は子をキリストとして定め相続人とし、霊なる神はご自身を塗り油として、この定められた相続人の上に注ぎ出し、彼を油塗って、神の神聖な経営の執行者とされました。

ヘブル人への手紙は、神が彼の御子イエス・キリストを相続人として油塗り、神の宇宙における事業を経営させるだけでなく、またキリストの兄弟たちもパートナーとして油塗られたことを啓示しています。第一章九節は、「あなたの神は、歓喜の油を、あなたのパートナーにまさって、あなたに塗られました」と言っています。これは神の長子の兄弟たちが、共同の相続人として、また唯一の相続人のパートナーとして定められたことを示しています。ですからキリストのパートナーとは、団体的なものです。すなわちそれは神の子どもたちで構成されている召会のことです。このすべての結果は、神の栄光ある表現です。新エルサレムで、わたしたちは神の栄光の表現を完全に見るでしょう。これが、わたしたちが入るべき栄光、安息、良き地、領域です。今日の召会生活は縮図であり、それを通して、新エルサレムの全体の絵を見ることができます。

ヘブル人への手紙第一章九節第三章十四節で、聖徒たちがキリストのパートナーであると言っています。ギリシャ語では、「パートナー」は「あずかる者」と同じ言葉ですが、二つの異なった意味があります。例えば、わたしが朝食にあずかる者であるとは、わたしが朝食を楽しむ者であることを意味しますが、わたしが会社のパートナーであるとは、その会社の共同のオーナーであることを意味します。第三章七節から第三章十四節の部分は、良き地に入ることを扱っています。この良き地に入ることの予表は、ヨシュアの指揮の下でその地に入ることでした。ヨシュアは良き地に入り、カレブはこの事柄で彼のパートナーでした。わたしたちはカレブをヨシュアに「あずかる者」と言うことはできません。なぜなら、カレブはヨシュアを享受できないからです。カレブは、良き地に入り、これを所有することで、ヨシュアの仲間、パートナーでした。今日、召会はキリストの団体的なパートナーであって、キリストはわたしたちの真のヨシュアであり、わたしたちは彼のカレブでなければなりません。この面で、わたしたちはキリストにあずかる者ではなく、彼のパートナーです。しかし、わたしたちがキリストを享受する時、彼にあずかる者です。キリストに従う時、わたしたちは彼のパートナーです。わたしたちはキリストにあずかって享受する者であるだけでなく、彼に従うパートナーでもあることを見る必要があります。彼のパートナーとして、わたしたちは彼と共に働き、彼に協力します。

長子は定められた相続者である
神は彼のエコノミーにおいて、大きな働きを持つだけでなく、莫大な豊富を持っておられます。彼の働きにおいて、多くの事を完成されました。また完成されつつあります。このために彼は御子を働き人としてだけでなく(箴言第八章三〇節)、相続者として定められたのです。神はまた御子に、彼の目的にしたがってすべてを行なう権威と、彼の働きの中で万物を相続する権利を与えられました。ヘブル人への手紙第一章二節は、神は御子を通して宇宙を造り、御子を万物の相続者と定められたと言っています。コロサイ人への手紙第一章十六節は、万物は御子によって、また御子のために創造されたと言います。ヨハネによる福音書第十三章三節は、御父は万物を御子に与えられたと言います。ですから、御子は万物の主です(使徒行伝第十章三六節)。

まず、御子は父なる神によって定められました(ヘブル人への手紙第一章二節)。次に彼は、御父によってその霊をもって油塗られました(ヘブル人への手紙第一章九節)。最終的に、御子が神の御子と定められた後(ローマ人への手紙第一章四節)、復活の中で神から生まれて神の長子となり(第一章五節使徒行伝第十三章三三節)、昇天の時に万物の主として職に任じられました(使徒行伝第二章三六節)。そして神の働きを管理し、合法的な相続人と定められることにより、神のエコノミーにおけるすべてのものを受け継がれます。彼は、アブラハムの子イサクと同じように、地(詩篇第二篇八節)、王国(ダニエル書第七章十三節―十四節)、御座(ルカによる福音書第一章三二節)、万物(マタイによる福音書第十一章二七節)を相続されます。彼は神の御子であるだけでなく、神の相続人、神の合法的な相続人であるので、父なる神であるすべてと、持っているすべては彼のものです(ヨハネによる福音書第十六章十五節)。これがわたしたちの救い主、わたしたちが相続する救いです。

多くの子たちは神の相続人、共同の相続人となる
神のエコノミーの中で、神は長子と多くの子たちを持っておられます。ヨハネによる福音書第三章十六節は、神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛されたと言っています。神のひとり子はキリストでした。キリストは彼の死と復活の前、神の唯一のひとり子でした。新約聖書は、キリストの死と復活を通して、神の多くの子たちが生まれたことを啓示しています(ペテロの第一の手紙第一章三節)。主イエスは復活の日の朝早くマリヤに、「わたしの兄弟たちの所へ行って、『わたしはわたしの父、またあなたがたの父、わたしの神、またあなたがたの神へ昇る』と彼らに言いなさい」と言われました(ヨハネによる福音書第二〇章十七節)。主はその朝より前には、決して弟子たちを兄弟と呼ばれませんでした。そのときまでの彼が弟子たちに対する最も親密な呼び方は、「友」でした(第十五章十五節)。しかし復活の後、主は彼の弟子たちを兄弟と呼ばれました。

これは、彼が死を経過して、復活の中に入られたことを証明します。彼が死と復活を経過された後、多くの兄弟たちが生み出されました。彼は、死と復活を通して多くの麦粒となった、あの一粒の小麦でした(ヨハネによる福音書第十二章二四節)。キリストは復活の後、神の多くの子たちが生み出されたので、彼は多くの兄弟たちのある神の長子となられたのです。

子は父の表現です。多くの時、わたしは子を見ると、父親の顔を認識することができます。なぜなら、子は父親を表現するからです。しばしば、わたしは子供を見ると、彼がだれの子であるかがわかります。なぜなら、子供は父親を表現しているからです。キリストの復活の前、神はただひとりの子を持っておられました。これは、彼が一つの、唯一の表現を持っておられたことを意味します。神は今日、多くの表現を持っておられます。なぜなら、彼は多くの子たちを持っておられるからです。すべての彼の子たちは、彼の表現です。

神の救いにおいて、わたしたちは神から生まれて、彼の子たちとなっただけではなく(ヨハネによる福音書第一章十二節―十三節)、「神の相続人、キリストと共同の相続人」とされました(ローマ人への手紙第八章十七節ガラテヤ人への手紙第四章七節テトスへの手紙第三章七節)。神の子たちに生まれるのは一つのことであり、神の相続人とされるのは別のことです。神の子となるのと、神の相続人となることは違いがあります。人は子であっても、相続人とならないかもしれません。子となるには、生まれればよいだけですが、相続人となるには、成長して円熟することが必要です。ですから、相続人となるために、円熟することと、法的に認められることの両方が必要です。人が神の相続人となるためには三つのこと、神の子供として再生されること、成長して円熟に達すること、法的に認められることが必要です。

仮に、ある王に五人の息子がいるとします。彼らはみな王座を受け継ぐでしょうか? 違います。ただ長子だけが王国の王座を受け継ぎます。それにもかかわらず、長子は成人して、皇太子として定められる必要節があります。そうすれば、彼は王座への法的な継承者となって、王国を受け継ぐでしょう。おそらく、ある信者たちはこれを聞いて、「キリストが長子であるからには、王国の御座はわたしたちとは関係がありません」と言うかもしれません。この地での王国の御座は、ただ一人のためですが、天の王国の御座は、長子と彼の多くの兄弟たちのためです。わたしたちはみな彼の兄弟たちであり、彼と共同の相続人です。彼が御座に着かれる時、わたしたちは彼と共にそこにいるでしょう(啓示録第三章二一節)。わたしたちは彼と共同の王たちとなるでしょう(啓示録第二〇章四節六節)。

わたしたちの御父は偉大な御父であり、わたしたちは父なる神の多くの子たちであって、神の長子であるキリストと共に、多くの豊富を相続します。しかし、わたしたちは命において成長し、円熟して、法的な相続人とされる必要があります。これは救われた人の運命であり、多くの子たちを救う神の目的です。すなわちわたしたちと神の御子が共に彼の相続人となることです。救いの最終目的は、わたしたちとキリストが共同の相続人となることです。

ヘブル人への手紙第二章で、わたしたち、キリストと共に相続人となる者たちが全地を受け継ぐと言っています。しかし、地を受け継ぐというのは、ただ千年王国での褒賞であって、学校で優秀な学生が賞を得るようなものです。わたしたちが相続するものはこれらのものをはるかに超えたものであり、わたしたちはキリストと共にすべてのものを受け継ぎます(コリント人への第一の手紙第三章二一節)。

キリストと共に相続人となり、彼のパートナーとなる

キリストと共に油塗られ、相続人とされたパートナー

キリストと共に相続人とされたわたしたちは、相続人として定められたパートナーです。キリストが神に油塗られたとき、わたしたちも彼の中で油塗りにあずかっていました。彼は過去の永遠に定められ、時間の中で油塗られました。詩篇第百三三篇では、大祭司アロンの頭に注がれた塗り油が、体全体に流れ、衣のすそにまで流れ下るのを見ます。これは、大祭司の体の全肢体が、彼の油塗りにあずかることを表徴します。わたしたちはみな、この唯一の相続者の油塗りにあずかる者たちです。その油塗りは彼の務めの開始でした。ですから、わたしたちはみな彼の務めにあずかります。これは、わたしたちがみな油塗られ、この務めの責任を担うということです。わたしたちはキリストを享受する者であるだけでなく、彼にあずかる者であって、わたしたちはまたキリストのパートナーであり、彼の経営にあずかっているものです。

わたしたちは彼のパートナーとして、彼が到達し、獲得したすべてのものを彼と分かち合う
神は先見をもって、この唯一の相続者は、一群れの共同の相続人を必要とすることを決定されました。神は、キリストが単独で良き地に入られるのは十分でないことを決定されました。神はこの唯一の相続者が一群れの共同の相続人と共に、神聖な存在の栄光ある表現という良き地に入ることを願われました。共同の相続人が多ければ多いほど、ますます栄光があるようになります。旧約でのヨシュアがイスラエルの子たちと共に良き地に入った時のことを考えてみてください。当初に、神はヨシュアだけを、良き地に入らせることができました。仮に、ヨシュアただ一人が全能の神によって良き地に入ったとしても、それほどの栄光はなかったでしょう。ヨシュアが先導して良き地に入った時、少なくとも二百万の人々が彼の後を行進し良き地へと入りました。それは、もともと良き地を占有していたカナン人を死ぬばかりに脅かしました。良き地に入ったのは単独の相続人ではなく、共同の相続人の軍隊でした。イスラエルがエリコを攻撃したとき、神はヨシュア一人を用いて奇跡を行なうこともできましたが、もしそのようにされていたなら、何の栄光もなかったでしょう。神はすべてのイスラエル人が大きな軍隊のように、エリコの周りでラッパを吹き行進し、エリコの町は戦わずして滅ぼされました(ヨシュア記第六章一節―二一節)。このことは、その地が予表していた、すべての悪鬼どもを戦慄させ、イスラエル人は栄光のうちに良き地を取ることができました。今日、わたしたちも良き地に向かって行進しつつあります。わたしたちはキャプテンとしての真のヨシュア、キリストを持っています。またわたしたちはみな良き地を占領することで、彼のパートナーとならなければなりません。

わたしたちは、まず彼にあずかり、そして彼を享受しなければなりません。そうしてこそ彼のパートナーとなることができます。わたしたちが彼を享受するとき、わたしたちは彼にあずかる者です。わたしたちが彼に従うとき、わたしたちは彼のパートナーです。この意味は、わたしたちが困難の時でさえ、彼を享受し、彼の豊富と養いにあずかることを意味します。わたしたちがこのように彼を享受した後、彼は先導するキャプテンとなられ、わたしたちは彼のパートナーとして彼に従います。彼が前進される時、わたしたちは彼と共に前進します。彼はキャプテンであり、わたしたちは軍隊です。これによって、わたしたちは彼の安息へ入り(ヘブル人への手紙第四章八節―九節)、彼の栄光に必ず導き入れられます(第二章十節)。

今日のヨシュアとカレブ
キリストは、救いの創始者(キャプテン)として、真のヨシュアであり、神の民を導いてその地を占領し所有されます。わたしたち、彼のパートナーは、真のカレブであり、その地を占領し所有することで神と共にあずかります。

わたしたちは、良き地を占領することに関して、正しい見方を持つ必要があります。もし良き地がなければ、神のご計画は成就され得ません。キリストの事業は、カナンの良き地を占領し、所有して、そこに神の家を建造することです。良き地は、キリストにある神のご計画を成就することであり、それは彼ご自身の完全な表現を持つことです。このために、キリストは経営者であり、わたしたちは彼のパートナーです。わたしたちはこの事業において、彼のパートナーです。わたしたちはこの目的のために、キリストと共に就任しました。わたしたちはキリストと共に就任して彼の任務に参与しました。それは、彼と共に、その地を占領し、占有して、神の家を建造するためです。最終的に、これは栄光の地となります。

今、キリストは神に完全な栄光を得させ、そしてわたしたちもその経営の中で、彼と協力しています。わたしたちはキリストとのいわゆる神聖な企業におけるパートナーです。わたしたちは、キリストと神聖な企業の中でのパートナーであり、共に権益を享受しているものです。仮に、あなたが億万長者のパートナーになったとしましょう。あなたは確かに莫大な富を持つことを保証されるでしょう。なぜなら、その億万長者が持っているものはみな、あなたのものであるからです。あなたは大会社で彼と一つです。神は宇宙で最大の会社を持っておられます。この会社の名は「キリストと召会」です。わたしたちはこの会社の雇われた社員ではなく、パートナーです。神は全宇宙でただ一つの会社、「キリストと召会」を持っておられます。この会社は何百万の御使いたちを、仕える者として持っています。今日、召会の中で、多くの人が主に起こされてキリストのパートナー、同労者となり、彼の経営の中にあって、各地で福音を宣べ伝え、召会を建造し、最終的に新エルサレムにおいて彼の完全な表現となりますように。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第5巻より引用

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