エゼキエル書第三六章二六節は、
神が彼の民に行なわれる命の回復について言っています、
「わたしはまた、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたの内に置く」。
旧約は人の肉の弱さにより、
神の人への心の思いに到達できず、
結果として何も成し遂げられませんでした。
しかし新約では、神の命の霊がわたしたちの中へと入って来ることによって、
わたしたちに新しい心、新しい霊を与え、
神によって再構成され、
命と力を持つことで神の要求を行なうことができ、
神の戒めを実行し、神に符合した生活をすることができます。
旧契約と新契約の定義
聖書には二つの主要な部分があります。それは旧契約と新契約です。しかし、実際には、神と人の立てた契約はこの二つだけではありません。例えば、神がノアと立てられた契約や、またアブラハム、ダビデと立てられた契約があります。しかし聖書の記載している諸契約の中で、ただ二つだけが数字をもって示されています。一つ目は神がシナイ山において、エジプトから出たイスラエル人と立てられた契約であり、第一の契約と呼ばれました。二つ目は神がイエス・キリストを通して立てられた契約で、第二の契約と呼ばれました(ヘブル人への手紙第八章七節)。新約以後、神は別の契約を立てられていません。ですから、新契約とは神と彼の民が立てた契約の最終のものです。第一の契約は、律法の契約と呼ばれます。第二の契約は完全に神の性質と緊密につながっています。律法は神の一枚の絵図を描いているのであり、律法は神ご自身ではありませんが、新契約の内容は神ご自身です。
神がイスラエル人と立てられた契約は、一般的に旧契約と呼ばれます。しかし厳密に言えば、この旧契約は、わたしたちが普通旧約聖書と言っている、創世記からマラキ書までの三十九巻だけではありません。旧契約の期間というのは、実際は出エジプト記第十九章から、主イエスの死の時までです。旧契約の条件というのは両当事者間のものでした。ですから契約の箱の中には二枚の石の板があったのです(ヘブル人への手紙第九章四節)。イスラエル人が律法を守るとしたなら、神は彼らを祝福します。もし彼らが律法を破ったなら、神は彼らを罰します。
旧契約には欠点がある
ヘブル人への手紙第八章七節は言います、「もし、あの第一の契約に欠けたところがなかったなら、第二のものを求める余地はなかったでしょう」。これは第一の契約には欠点があったことを言っています。旧契約によれば、律法の契約そのものは聖書が言っているように「律法は聖であり」(ローマ人への手紙第七章十二節)、「律法は霊的であり」(十四節)、「律法は良いもの」(テモテへの第一の手紙第一章八節)です。しかし、その機能に関して言えば、「律法によっては、罪の明確な自覚があるだけで」(ローマ人への手紙第三章二〇節)あり、「律法は、信仰に基づいているものではありません.かえって、『それらを行なう者は、それらのゆえに生きる』」(ガラテヤ人への手紙第三章十二節)ということです。また、律法が肉のゆえに弱くて、律法をなし得ることができませんでした(ローマ人への手紙第八章三節)。これは、律法はただ人に善を行なうことを要求するだけで、人に善を行なう命と力は与えないということです。要するに、律法は何も完成しなかったということです(ヘブル人への手紙第七章十九節)。
実際の状況からも見てみると、出エジプト記第十九章から二四章での記載では、神が人と立てられた契約は、イスラエル人がエジプトを出てから三ヵ月後のシナイ山において立てられたものでした。その時、神はモーセに、イスラエル人が神の言葉に聞き従い、彼の契約を守るよう語りなさいと言われました(第十九章五節―六節)。イスラエル人はこれを聞いた後に、みな共に答えて言いました、「エホバが語られたことをみな、わたしたちは行ないます」(八節)。モーセはこの契約を宣言した後に、犠牲のささげ物の血を取って民に振りかけ、そして言いました、「見よ、これは、エホバがこれらすべての言葉にしたがって、あなたがたと結ばれた契約の血である」(第二四章八節)。この契約の中で、神は言われました、「あなたはわたしの前で、他の神々を持ってはならない。……自分のために偶像を造ってはならない.……それらにひれ伏してはならない」(第二〇章三節―五節)。しかしモーセが契約の板を持ってシナイ山から降りて来る前に、イスラエル人はすでに、金の子牛を造り、それを拝んでいました(第三二章一節―八節)。言い換えれば、契約の板が山から持って降りられる前に、イスラエル人はすでに契約に背いていました。その後、イスラエル人は、神の契約を守ることができず、そのために神の裁きを受けました。これらはすべて、初めの契約に欠点があったことを言っています。
別の新しい契約を立てる
神はイスラエル人に律法を公布し、もともとは彼らが根本的に神の律法を守ることができないことを暴露し、彼らを神の御前へと来させ、神を命として受け取らせるためでした。神が律法を公布した目的は、命をもたらすためでした。しかし、大多数のイスラエル人は神の御前へとはもたらされず、神を命として受け取らずに、自分自身によって律法を守ろうとしました。その結果、ちょうど旧約の歴史に記載されているように、イスラエル人は失敗を繰り返し、国も滅びてしまいました。旧契約に欠点があったために、エレミヤ書とエゼキエル書ではどちらも神が新しい契約を立て、彼の民を回復させることを予言しています。
エレミヤ書第三一章三一節から三四節は言います、「見よ、その日々が来ようとしていると、エホバは告げられる.その時、わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ.その契約は、わたしが彼らの父祖を、その手を取ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと立てたようなものではない.わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはわたしの契約を破ったとエホバは告げられる。しかし、これらの日々の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれであると、エホバは告げられる.わたしはわたしの律法を彼らの内なる各部分に置き、それを彼らの心に書き記す.わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そして、彼らはもはや、それぞれ隣人とそれぞれ兄弟に教えて、『エホバを知れ』と言うことはない.まことに、彼らのうちの小さな者から彼らのうちの大きな者まで、彼らはみなわたしを知るようになるからであると、エホバは告げられる.まことに、わたしは彼らの罪科を赦し、もはや彼らの罪を思い出さないからである」。 ヘブル人への手紙第八章八節から十二節は新契約について言っていますが、それは、エレミヤ書のこの箇所からの引用です。この箇所は四つの重点を言っています。(一)神は彼の民の罪を赦し、清めます。(二)神は彼の律法を彼の民の心に置かれます。(三)神は彼の民の神となられます。(四)神の民はすべて神の性質と力を知るようになります。
エゼキエル書第三六章二五節から二八節にも似たような記載があります。神はイスラエルの家に言われました、「わたしは、清い水をあなたがたの上に振りかけるので、あなたがたは清くなる.わたしはあなたがたのすべての汚れから、すべての偶像からあなたがたを清める。わたしはまた、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたの内に置く.わたしは石の心をあなたがたの肉から取り去り、あなたがたに肉の心を与える。わたしは、わたしの霊をあなたがたの内に置いて、あなたがたにわたしのおきてに歩ませ、わたしの規定を守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの父祖たちに与えた地に住む.あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」。これらの節は少なくとも五つの事について語っています。(一)清い水で神の民を清めます。(二)神の民に新しい心を与えます。(三)神の民に新しい霊を与えます。(四)神の民の石の心を取り去ります。(五)神の民の中に神の霊を置かれます。この五つの事を合わせた結果というのは、神の民が神のおきてを行ない、神の規定を守り行ない、神の民となるということです。
この二冊の書のこれらの節で言われているのは、神が立てられた新契約です。新契約の原則はわたしたちが信じ、再生を通して、神の命の霊がわたしたちの中に入ることです。それからわたしたちに新しい心、新しい霊を持たせ、わたしたちは再構成され、命と力を得ることで神の要求を果たし、神の戒めを実行し、神である生活に符合した生活をすることができます。
エレミヤ書第三一章三一節から三二節では、この新しい契約は神がイスラエルの家とユダの家と立てた契約であると言います。ですからこの契約は、神が異邦人と立てられた契約ではありません。しかし、マタイによる福音書第二六章では、主イエスは売られたその日に、「また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、『みな、それから飲みなさい.これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、注ぎ出されるわたしの契約の血である』」と言っています(二七節―二八節)。これは主が新契約を、彼を信じるすべての人に適用されたということです。主がわたしたちの罪のために血の代価を支払われたので、彼が贖われた人は新契約を享受することができます。ですから、彼が死なれたその日に、新契約が設立されました。新契約はこの主のさらにまさったいけにえの血によって立てられ、わたしたちのために永遠の贖いを成就しました。ですから、新契約は永遠の効力があります。主イエスが十字架に釘づけられて流された血は、ただ罪の贖いのためだけでなく、それはまた新契約を設立するためのものでした。罪の贖いは手続きであり、目的は新契約を設立することです。罪の贖いと新契約の設立には大いに関係があります。なぜなら、罪の問題がもし解決していないなら、新契約の祝福はわたしたちに来ることはありません。主の血は罪の問題を解決するだけでなく、彼の血は新契約を設立します。ですからわたしたちは今日、すべての人が神の立てられた新契約の祝福を享受することができるのです。
新契約の内容
わたしたちは続けて、神の新契約の内容と祝福について一つ一つと見ていきましょう。
赦しと清め
エレミヤ書第三一章三四節後半は言います、「わたしは彼らの罪科を赦し、もはや彼らの罪を思い出さないからである」。新約の内容の最初の第一項目は、神がキリストを信じるすべての人の罪を赦し、清め、もはや彼らの罪を思い出さないことです。また神の赦しとは、罪を赦された者の罪を忘れ、もはや思い出さないということです。これはエゼキエル書の第三六章二五節で言っていることと符合しています、「わたしは、清い水をあなたがたの上に振りかけるので、あなたがたは清くなる」。この清い水は、主の贖い、清める血、すなわち罪を洗う泉を指しています。キリストの贖いによって、わたしたちの罪の問題は、すでにキリストの血によって洗われ、赦され、わたしたちと神の間にはもはや妨げはなく、神の御前に進み出ていることができます。これは旧約の時代の人には得ることのできなかったものです。
神は彼の律法を人の心の上に記す
エレミヤ書第三一章三三節は言います、「わたしはわたしの律法を彼らの内なる各部分に置き、それを彼らの心に書き記す」。旧約は神の律法は石の板の上に書き記され、人の外側から人に要求しました。しかし新約では、神は彼の律法を人の心に書き記したと言います。これは命の律法であるに違いありません。またこの律法そのものが命であるに違いありません。そうでなければ、人の中に書き記すことはできないはずです。それだけではなく、この律法が人の心に書き記されたということは、それが人の中心(人の霊)から、その周辺(人の心)へと広がったことを示しています。この律法は神の命であり、また神の命は神ご自身です。すべての命には、法則、その命が成長する規則というものがあります。この法則は一種の自動的に働く機能のことです。神の命は最高の命であって、この命には最高の法則があります。神の命はわたしたちの再生を通して、この命がわたしたちの中へと入り、わたしたちの内側で自然に機能します。これは、エゼキエル書の中で言っている、神がわたしたちに新しい心、新しい霊を与え、また彼の霊をわたしたちの内に置き、わたしたちを再構成するということです。
神が与えられたのは「新しい心」、「新しい霊」であって、もう一つ別の「心」と「霊」を与えられたのではありません。それは彼の霊がわたしたちの中へと入ってきて、わたしたちにもともとある、その悪い心を更新し、わたしたちの死んでいた霊を生かし、更新し、わたしたちが神で再構成され、神の要求を行なう力を持たせます。
神は彼の民の神となる
エレミヤ書第三一章三三節は続けて言います、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。旧約で、神は律法にしたがって彼の民の神となり、人はまた律法にしたがって神の民となります。しかし新約では、神の命がわたしたちの中へと入り、わたしたちの霊が生かされることによって、わたしたちは霊を用いて彼を礼拝し、神を享受することができるようになり、神と行き来し交わりを持つことができるようになります(ヨハネによる福音書第四章二四節)。このように、神はわたしたちの神となり、またわたしたちも神の民となります。それらはすべて石の板の上に書かれた規定によってではなく、わたしたちの心の上に刻み込まれた律法によります。ですから、わたしたちが救われた時から、神がわたしたちの神となるようにと望みます。また神がわたしたちの神になるということは、彼がわたしたちに、認識、理解を与えることと、またわたしたちを通して生かし出されることです。エゼキエル書第三六章二八節後半で言っていることは、エレミヤ書で言っていることと完全に同じです。
信じた者はみな神を知るようになり、人に教えられる必要はない
エレミヤ書第三一章三四節は言います、「そして、彼らはもはや、それぞれ隣人とそれぞれ兄弟に教えて、『エホバを知れ』と言うことはない.まことに、彼らのうちの小さな者から彼らのうちの大きな者まで、彼らはみなわたしを知るようになるからであると、エホバは告げられる.まことに、わたしは彼らの罪科を赦し、もはや彼らの罪を思い出さないからである」。わたしたちは内側で神の命を受けたので、この命には命の機能があり、わたしたちに神を知るという機能を持たせます。また、この認識は外側の知識における導きではなく、内側の命の感覚からのものです。ですから、神の命を得れば、命の法則が彼らの内側にあるようになり、内側から主観的に神を認識できるようになるのです。
新約全体の内容
新約の内容はまた新約聖書全体の内容です。原文では「契約」は「遺言」と同一の字です。キリストが死なれ、血を流すことによって成立した新約は、一つの契約であるだけでなく、彼の復活、昇天以後には遺言となりました。契約の中に記載された内容はすべて、彼を信じる人に遺贈され、それをもってわたしたちに彼の救いの祝福を受け継がせます。主がこの遺言の中でわたしたちに遺贈されたものは、尽き果てることのないものです。たとえば三一の神ご自身、贖い、罪の赦し、聖別、義とされること、和解、再生、子たる身分、命、力、平安などです。新約聖書の内容はすべて、主がわたしたちに遺留された遺言であり、いくら取ってもどれだけ使っても尽きることはなく、わたしたちにずっと永遠にまで享受させます。
新契約は旧契約にまさる
いままで述べてきたことは、わたしたちに新契約が旧契約にまさるということを見せています(ヘブル人への手紙第七章二二節、第八章六節)。旧約において、神はわたしたちの心を引きつけ、エジプトから脱出させました。旧約において、神は律法をイスラエル人の外側に置かれましたが、新約においては、神は律法をわたしたちの中に置かれ、わたしたちの心に記されました。旧約において、イスラエル人は神が四十年あまり行なわれてきたことを見ました。導いている人はいますが、心の内側でははっきりとしておらず、神の法則を知りません。しかし、新約においては、人の導きを必要とせず、わたしたちの中の小さい者から大きな者すべてが、その内側で神を知ることができます。旧約ではわたしたちの肉の弱さから、その結果は何も成し遂げることができません。しかし新約は神の命の霊を通してわたしたちの中へと入り、わたしたちに新しい心を持たせ、新しい霊を持たせ、また神で再構成し、わたしたちに命と力を持たせ神の要求を行なわせ、神の戒め、すなわち神ご自身に符合した生活をさせ、わたしたちが彼を生きるようにさえします。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第4巻より引用