宇宙において、人は高貴で、価値があり、感情豊かで、思考を持っています。神の御手の中で、人は彼の宝です。しかしながら、ある日、人は堕落のゆえに罪の中に失われてしまいました。このために、神は人を尋ね、人を照らし、人を感動し、人を本心に立ち返らせ、人を彼ご自身へと連れ戻されます。
ルカによる福音書第15章8節から10節において、主イエスは一人の女が銀貨を見つけるたとえを用いてこの失われたことを語りました、「ある女が銀貨を十枚持っていて、その一枚の銀貨を失ったなら、それを見つけるまで、ともし火をともし、家を掃いて、念入りに捜さないだろうか? そして見つけたなら、友人や隣人を呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください.なぜなら、わたしの失った銀貨が見つかったからです』と言う」。
人は神の被造物の中で最も尊いものである
聖書はわたしたちに見せていますが、人は神によって創造されたものであって、自然と神に属しています。創世記第1章において、神は彼の姿とかたちにしたがって人を造り、また彼の統治権を人に与えられたことを告げています(26―28節)。神は人を造られた後、神の造ったすべてのものを非常に良いと見て、それから神は心地良く安息されました。これ以前に、「非常に良い」と言われたことはなく、彼のすべての被造物に対してただ「良い」と告げただけでした。しかし、人は神のかたちを持ち、神の表現と代表となるので、神は「非常に良い」と言い、さらに心地良く安息することができました。神は人によって心地良さを得られました。また、人は神の心地良さです。神の被造物の中で、人は最も独特なものです。神の目において、彼の被造物には人のように美しく、尊いものはありません。ですから、ルカによる福音書第15章において、人は失われた一枚の銀貨にたとえられています。神は、人を彼の宝のように尊いと見ています。神は、その女が自分の銀貨を尊いと見ているのと同じように、失われた人を見ておられます。
人は失われた
失われることは、主から離れ、元の身分と地位から離れることです。神は人の主人であり、人が造られたのは神のためであって、身分と地位は極めて高いのです。しかしながら、今日人は自分が誰に属しているのかを知りません。これは、人が失われていることを証明します。人は自分がどこからやって来て、どこへ行くのか知らず、自分の生存の意義と目的を知らないということは、また人が失われていることを証明します。創世記第3章の記載によれば、人は神の命令に違反した後、自分自身を隠し、神の御顔を避けました(1―8節)。人は堕落して神から離れ、結果的に失われてしまいました。人は何回も堕落した結果、地上の逃亡者、また放浪者となりました(4章14節)。
ルカによる福音書第15章のたとえにおいて、その女は家を掃いて銀貨を捜しましたが、これは銀貨がほこりの中に失われたことを意味します。ほこりは罪のことを指しており、ほこりの中に落ちたことは、罪の中に陥ったことを意味します。わたしたちはみな人生の過程の中で、とても実際的に罪の煩いを感じることができます。わたしたちは自分の状況を見て、周りの人を見て、また家庭と社会を見るとき、ほとんどに罪深いものがあります。もし、わたしたちが自分の行ないを吟味するなら、自分は欠け目と不義に満ちていることを見いだすでしょう。それから振り返って自分の家庭の人を一人一人吟味するなら、わたしたちは頭を下げて、自分の家族は公明正大ではないと言うでしょう。さらに視野を広げて、社会の状況を見るとき、あらゆるところが罪深く、邪悪に満ちていると認めなければなりません。
日々朝から晩まで、新聞であれ、テレビであれ、ニュースであれ、インターネット情報であれ、見るに堪えないものばかりです。罪は個人を腐敗させ、家庭を破壊するだけでなく、社会と国を害します。それだけでなく、罪は人を支配します。多くの人は罪から逃れようとしますが、最終的に逃れられなくなります。罪は容易に感染しますが、容易に除き去ることはできません。ですから失われた結果は、罪深い汚れの中に陥り、罪深いものの中で生活することです。
有名な伝道者であるルーベン・トーレー博士(R.A.Torrey)が若い頃、彼は罪の中にふけり、神を信じず、聖書も信じませんでした。彼の母親は主を愛するクリスチャンであり、よく彼のために祈り、真の神に立ち返るように口酸っぱく彼に勧めていました。しかし、彼は非常に煩わしく感じて、最終的に母親に対して言いました、「あなたの話はもううんざりだ。今わたしは家を出るので、もうあなたを悩ませることはない」。母親は涙を流しながら、彼を挽回しようとしました。そして玄関先まで出て来て言いました、「わたしの子よ! もし、あなたが極めて暗いところへ行き、すべてが絶望的になったとき、神を呼び求め、切実に彼を尋ね求めるなら、彼は必ずあなたを助けてくださいます」。
トーレーが家を出た後、本当に罪に陥り、さらに深く陥ってしまいました。ある日の夜、彼はある旅館の中で、自分は罪深い苦境の中にいて、人生が退屈で眠ることができないと感じ、銃で自殺しようとしたとき、突然母親の別れの言葉を思い出しました。トーレーはすぐにベッドの前にひざまずき、大声で祈りました、「神よ! 宇宙の中で本当にあなたがおられるなら、わたしを助けてください。わたしは光が必要です。わたしに与えてください。与えてくださるなら、わたしは必ずあなたに従っていきます」。祈った後、彼の内側はすぐに明るくなり、喜びと平安に満たされました。そして、彼はすぐに家に帰りました。彼の母親は彼が帰って来るのを見ると、喜んで言いました、「わたしの子よ! あなたが帰って来るのを知っていました。神は、あなたが主を得たことをすでにわたしに告げてくださいました」。その後、彼は自分自身をささげて主のために福音を宣べ伝え、千万の人を主に導きました。このことからわたしたちは見ることができますが、人は神に立ち返ることによってのみ、罪から逃れることができ、失われた人生に真の転換をもたらすことができます。
神は聖霊を通して人を捜す
親愛なる友人のみなさん、あなたは人が堕落して罪を犯した後に神が人に告げた最初の言葉は何であるかをご存じですか? それは、「あなたはどこにいるのか?」です(創世記第3章9節)。これは、神の心は人を罪定めするのではなく、人を捜すことであるのを告げています。彼は、最初の創造におけるみこころへと人を連れ戻すことを願っておられます。こういうわけで、二千年前に、神は地上に自らやって来られ、一人の人、すなわち主イエスと成って、人の生活をされました。彼は十字架上で死なれ、人の罪を解決されましたが、これは客観的に捜すことです。彼はまた復活し、聖霊を通して人の中へと入ってからも主観的に捜しました。女が銀貨を捜すたとえは、聖霊が人の心の中に入って人を捜すことを指しています。こういうわけで、ヨハネによる福音書第16章8節は言います、「彼(聖霊)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の人に自らを責めさせるであろう」。これは、聖霊が人の中に入って、人を照らし、人を感動させ、人を捜し、神に立ち返る思いを人に持たせたことを意味します。
聖霊は、聖書の言葉に伴って働かれます。人が福音を聞いたとき、聖霊は福音の言葉に伴って、人の内側で照らし、捜し、人を本心に立ち返らせ、罪について自らを責めさせます。人が救われていないとき、自分が罪人であるということを人に認めさせるのはとても難しいことです。聖霊が人の内側で働き、感動させることによってのみ、人は自分が罪の中に生まれ、罪の中で育ち、罪の中で生き、完全に罪人であるということを見ることができます。これがルカによる福音書第15章におけるあの女がともし火をともして、家を掃いたことのたとえです。失われた人の内側は暗やみです。聖霊が来るとき、聖書の言葉を用いて人を照らします。今日、人々が聞く福音は聖霊の照らしです。掃くことを経過していない心は、暗く汚れているだけでなく、孤独です。人々が福音を聞いたとき、心の中が沸騰して不安になることは、聖霊が部屋を掃くことであり、神が人を捜すことでもあります。聖霊が人の内側で念入りに捜すとき、人の内側に親密な思いと細やかな感覚を与えます。聖霊が照らし、感動させた後、人の思いを転換させ、過去を悔い改めさせ、罪を憎ませます。また、善を行なう必要はなく、今はただ主イエスを信じれば罪から逃れ、罪の赦しを得ることができるということを知ります。これが人の心の中で聖霊が人を捜すことであり、失われた罪人を尋ね出して神に帰すことです。
かつて欒腓力(ラン・フェイリー)という信者がおり、救われる前はクリスチャンの信仰を軽視していました。ある日、彼は山の中にある寺の供えの机の上に聖書が開かれていることを見て、好奇心で入って行きました。聖書はちょうど詩篇の第1篇の箇所が開かれていました、「幸いである、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に座らない人は.彼の喜びはエホバの律法にあり、昼も夜も、彼はその律法を思い巡らす。彼は水の流れのそばに移植された木のようであって、その季節には実を結び、その葉はしおれることがなく、彼が行なうことはすべて栄える…」。彼は少し読んだだけでとても引き寄せられ、聖書はこんなにもすばらしいのかと思い、第一篇を読み終えました。彼は読めば読むほど、ますますすばらしいと思いました。このとき、聖霊が働いて彼は感動しました。だれも彼に福音を伝えたり、彼に何かを語ったりしませんでしたが、彼はただ御言葉を読んだだけで、聖霊は罪について自らを責めさせました。最終的に、彼は地面を転げ回り、涙を流し、罪を告白して救われました。これは、聖霊の働きを経過していない人は罪について自らを責めることはないということをわたしたちに見せています。同じように、聖霊の照らしを経過していない人、聖霊の捜しを経過していない人は、悔い改めて神に立ち返ることができません。
神の捜しを受け入れる
友人のみなさん、主イエスの贖いはすでに完成していますが、どのようにしたらあなたはそれと関わりを持つことができるのでしょうか? このために神の言葉はわたしたちに告げていますが、主イエスが救い主としてわたしたちを捜し、わたしたちを救うだけでなく、同時に神は二つ目のことを行なっておられます。それは、聖霊を通してわたしたちを照らすことです。ルカによる福音書第15章8節は言いますが、女はともし火をともして捜します。ともし火をともすことは何のためでしょうか? ともし火をともすことは、見るためです。ともし火をともすことは聖霊があなたを照らして、あなた自身が罪人であること、主イエスの働きはあなたを救うことができることをあなたに見せることです。
今日、聖霊はなおもすべての神の子供たちを通してあらゆる所で人を捜しています。ですから、常にクリスチャンはあなたに会うと手間を惜しまないであなたに勧め、またあなたが救われるまで続けようとしていることに対して不思議に思わないでください。これは神があなたを捜しておられるからです。あなたがここでクリスチャンに会うことによって、あなたを捜し、そこでクリスチャンに会うことによってあなたを捜します。あなた自身が神を捜しているのではなく、神があなたを捜しているのです。あなたは知る必要がありますが、神は全地で人を捜しておられます。神は大いに人を捜しておられます! 聖霊は大いに人を捜しておられます! 主イエスの贖いの働きはすでに完成しました。今日、聖霊はあなたを照らし、あなたを見つけます。
友人のみなさん、主イエスはすでに来られ、聖霊も来られました。わたしたちはただ自分が失われた罪人であることを認め、悔い改めて神に立ち返り、聖霊の照らしと導きを受け入れる必要があります。ローマ人への手紙第10章9節から10節は言います、「すなわち、あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます.なぜなら、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからです」。この意味は、あなたがただ信じて、イエスを主とするなら直ちに救われるということです。あなたの心がここにあり、口がここにあるなら、今あなたは救われることができます。なぜなら、贖いの事柄は神が行なわれたことであり、主イエスが完成されたものであり、聖霊が彼のしもべを遣わしてあなたに告げたものであって、事はすでに成し遂げられたからです。聖霊が来て、罪について、義について、裁きについて、あなたに自らを責めさせるのです(ヨハネによる福音書第16章8節)。あなたが何かを行なう必要はなく、ただ信じて受け入れるだけで救われます!
詩歌(悲しみと闇からわたした来ました!) 習志野に在る教会作成
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第4巻より引用