「あなたはどこにいるのか?」。これは極めて日常的な質問であり、生活の中であらゆる場面と状況に用いられます。それは一般的な質問であったり、親密な会話であったりします。それはまた、急いで相手に出てきてほしいとき、また責める口調で相手の所在を知ろうとするときのことであるかもしれません。不思議なことに、全知の神が人に対して、呼びかけて尋ねられました、「あなたはどこにいるのか?」(創世記第3章9節)。神は人を造り、人をエデンの園に置き、人に警告して言われました、「善悪知識の木からは、食べてはならない.それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ」(第2章17節)。しかしながら、人は蛇の誘惑と受け、欺かれて神の命令に背き、その木の実から食べ、神の御前で違反を犯しました。アダムが罪を犯した後、神を恐れたことによって、エデンの園の木の間に隠れ、神の御顔を避けました。しかし、神はやって来てアダムに呼びかけて言われました、「あなたはどこにいるのか?」。
人は失われていた
「あなたはどこにいるのか?」。これは人が罪を犯した後、人に対する神の最初の言葉です。この言葉は簡単ですが、その意義は非常に深遠です。神はアダムがどこにいるのかを知らないのでしょうか? いいえ、神がこのように尋ねられたのは、一面、神が人を尋ねられたことを意味し、もう一面、神は人に自分がどこにいるのかを知ってほしかったことを意味します。神がこのように尋ねられたのは、人の所在である地理的な位置を尋ねただけでなく、人が彼の御前における地位と状況を問われました。神は、アダムがどこにいるのかははっきりしておられますが、何も語らないで、逆に「あなたはどこにいるのか?」と尋ねられました。神は、アダムが自分で、起こったことをすべて神に話すようにさせました。アダムは答えて言いました、「わたしは園であなたの音を聞き、裸なので、恐れて、身を隠しました」(第3章10節)。アダムの状況と状態によれば、彼は罪の中におり、神の罪定めの下におり、死の中にいました。彼は自分を隠し、神の御顔を避けたことは、彼が神と問題を起こし、神との関係が正しくなくなり、神の御前における彼の本来の地位を失ったことを意味します。ですから、彼は失われたと言うことができます。これは、また今日の人の状況であって、人は神から離れ、神から失われました。
中国の詩人、政治家であった蘇軾が著した「赤壁の賦」において、「夫(そ)れ天地の間、物各(おのおの)主有り」という言葉があります。この意味は、天地の間に、すべてのものにそれぞれ属するものがあるということです。少し話し言葉に変えると、すべてのものに主人がいるということです。宇宙において、人は高貴で、価値があり、感情と思想に富んでいます。しかしながら、人の主人はだれでしょうか? 人はだれに属し、だれに帰するのでしょうか? 人はよく自問して言います、「わたしはどこから来たのか? どこへ行くのか? わたしの人生は何の目的があるのか?」。長い間、このような問題は常に人を煩わせていました。人は、自分がどこにいるのかを知らず、人生とは何かを知らず、ましてや人生の目的は何であるかを知りません。人は探しても探しても、主人を見いだせません。探しても探しても、どこに帰属しているのかがわかりません。これは、人が失われていることを意味します。なぜなら、失われたものだけが主人を見いだせず、帰属するところがないからです。
人が主人を見いだせないということは、人が失われていることを証明します。人は、経度と緯度を失った船のように、どこから来たのか、またどこへ行くのかがわからず、広大な海の中でさまよい、何をしてよいのかわかりません。青年の学生が学校から卒業するとき、人々は彼の前途洋々の人生に向けて羽ばたくことをよく祝福として語りますが、彼らの多くは、いくつもの分かれ道の交差点に立っているようであり、茫然として前の道がよく見えず、自分は何をするべきか、どこへ行くべきかがわかりません。ある人は、一日中忙しく、常に何かを追い求めており、終わりがありません。その結果、過労に悩み、健康に支障をきたすまでになります。人は朝から晩まで何に忙しくしているでしょうか? 忙しくしてどこへ至るのでしょうか? 人は全く知りません。忙しいときは、とても楽しいようです。忙しさが過ぎ、落ち着いたとき、言い表せないむなしさが襲ってきます。人がむなしく、呆然としているのは、神を失ったからです。人は失われ、迷い、漂い、さまよっており、帰る場所がありません。
神は人を尋ねられる
アダムが罪を犯した日、彼は神の裁きを受けるべきでした。しかしながら、神は人を罪人と見なさず、彼の愛の中で、人は、彼に尋ねられる必要のある失われた者として見られました。旧約において、神は言われました、「わたし自ら、わたしがわたしの羊を捜し、尋ね出す。牧者が昼間、散らされている自分の羊の間にいるとき、自分の羊の群れを捜し出すように、わたしはわたしの羊を捜し出す.わたしは彼らを、雲と濃い暗やみの日に散らされたすべての所から救い出す」(エゼキエル書第34章11節―12節)。またこう言いました、「わたしは失われた者を尋ね、迷い出た者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病んでいる者を力づける」(16節)。新約において、神は自ら人と成られました。彼の名前はイエスであり、失われた人を救うためにやって来られました。
失われた人は、行方不明になった人です。一人の父が息子を失ったとき、彼は至る所で捜し、さらには張り紙を至る所に貼ります。今日、神はなおも人を尋ねておられますが、あなたがその失われた人であり、神は至る所であなたを尋ねておられます。あなたはこのことを信じないでこう言うかもしれません、「わたしはきちんと家にいます」。あなたは確かに家にいますが、神はあなたを失い、あなたも神を失いました。神の目から見て、あなたは行方不明であり、失われており、家から離れており、いるべき地位にいないのです。
ルカによる福音書第15章において、主イエスは三つのたとえを語られましたが、すべて失われた問題に言及しました。それは、失われた羊、失われた銀貨、失われた息子(放蕩息子)です。この三つのたとえは、羊が迷ったこと、銀貨を落としたこと、息子が失われたことをわたしたちに告げています。またこの三つのたとえは、羊が見つかり、銀貨が見つかり、息子も見つかったことをわたしたちに告げています。主イエスはこの三つのたとえを通して、神の御前でどのようにしてわたしたちは失われた者であるのか、またどのようにしたら神の家に戻ることができるのかをわたしたちに見せています。
ある人は自分が迷ったことを知ったなら、帰り道を探そうとします。しかし、彼はこのように考えます、「わたしは神からどれくらい離れているかわかりません。神のところに帰るには、どれだけの道を歩くのか、またどれだけの力を要するのかがわかりません。どれだけの良いことを行なえば、神の心を変え、神にわたしを受け入れていただくことができるのかわかりません」。彼はこのように考えます、「わたしは神を求めますが、神がわたしを求めているかわかりません。わたしは救われたいのですが、神がわたしを救うかどうかわかりません。どのようにしたら救われるのかがわかりません」。彼は、この道はとても遠く、代価は大きく、そこに到達することは苦しいことであって、彼にはできないと考えます。
友人のみなさん、もし、あなたもこのように考えているなら、あなたに告げたいと思いますが、聖書で語っていることは、あなたの考えていることとは、全く異なります。聖書で語っていることは、失われた人が家を見いだしたのではなく、主が失われた人を尋ねられたのです。ルカによる福音書第15章における一つ目のたとえはこのようにわたしたちに告げています。それは、牧者が一匹の羊を失い、それゆえに他の羊を残して、失われたその一匹を見つけるまで捜しに行ったということです。これは福音です。失われた羊が自分で道を覚えていて、道にしたがって帰ったのではありません。聖書はわたしたちに告げていますが、羊が牧者を捜したのではなく、牧者が羊を捜したのであり、牧者が羊を見つけて連れ戻したのです。言い換えれば、あなたが救い主を尋ねるのではなく、救い主があなたを尋ねるのです。あなたから神のところへ行くには、道が遠すぎます。しかしながら、この遠い道は主が歩まれるのであって、あなたが歩むのではありません。あなたが神を捜すのではなく、神があなたを捜すのです。あなたが神のところへ行くのではなく、神があなたのところに来られるのです。
キリストの贖い
一つ目のたとえにおいて、わたしたちが注意しなければならないのは、なぜ主イエスがいなければならないのかということです。あるいは、主イエスが地上に来られたのは何のためであったのかということです。ルカによる福音書第19章は言います、「人の子が来たのは、……尋ね出して……」。人の子が来られたのは尋ね出すためです。あなたは救われることを願い、永遠の命を得ることを願い、神の子たちとなることを願い、罪定めされないことを願います。しかし、あなたには大きな問題があります。それは、「だれがわたしを救うのでしょうか?」ということです。あなたは心の中でこのように考えます、「だれが天に昇って、救い主をもたらし、救い主を連れてきてくださるのでしょうか? わたしには必要がありますが、だれが行くことができるのでしょうか?」。友人のみなさん、あなたは天に行く必要はありません。主イエスはすでに来られました。あなたは、「救い主が必要です」と救いを求める必要はありません。あなたは天へ行って、「神よ、わたしに恵みを与えなければなりません」と言う必要はありません。いいえ、このようなことは必要ありません。主は自ら来られました。主イエスは来られ、わたしたちの罪を担い、わたしたちの代わりに死に、さらに死から復活されました。天へ行ってドアをたたいて救い主をもたらした人はだれもいません。また、ハデス[陰府]へ行って彼を連れ出した人はだれもいません。彼は自ら天から下って来られ、また彼は自らハデス[陰府]から上がって来られました。これらすべては、わたしたちが行なうことではありません。
贖いは主イエスが行なわれることであって、あなたが行なうことではありません。わたしたちの良い牧者は自ら天から下って来られ、わたしたちのために罪を担い、わたしたちの代わりに死に、わたしたちのために復活されました。あなたが彼を尋ねたのではなく、「人の子が来た」のです。「人の子が来た」という言葉は、とても尊いです。わたしが行くのではなく、彼が来られるのです。わたしが神のところへとはい上がるのではなく、神がご自身を卑しくしてわたしのところに来られるのです。これは福音です! 福音の意味は、わたしの努力によって神のところに達することではなく、神の働きによって、わたしのところに来られることです。
聖霊の照らし
ある人はこう言うかもしれません、「主イエスは、わたしに代わって贖いを成し遂げましたが、わたしの心は何も感じず、主イエスの贖いの効果があるのかどうかわかりません」。これはある病にかかった人にたとえることができます。彼の病をいやす特効薬はありますが、彼は自分がどのような病にかかっているかがわからず、どのような薬を使ったらよいのかもわかりません。こういうわけで、彼はどんな病にかかっているのか、またどのような薬を用いるのかをだれかが彼に告げる必要があります。友人のみなさん、あなたにはこのような問題はありませんか? このために、聖書はわたしたちに告げていますが、主イエスは救い主としてわたしたちを尋ね、わたしたちを救われると同時に、神は二つ目の事柄、すなわち聖霊を通してわたしたちを照らすことを行なわれます。
ルカによる福音書第15章における二つ目のたとえ、すなわち女が銀貨を捜すたとえは、聖霊の照らしについて語っています。そこでは、ある女が一つの銀貨を失ったので、ともし火をともして念入りに捜したことについて語っています。ともし火をともすことは見るためであり、それは聖霊があなたを照らして、自分が罪人であることを見せ、主イエスの働きがあなたを救うことができることをあなたに見せることです。友人のみなさん、聖霊の照らしもあなたが捜し出すものではなく、あなたを捜し、あなたが見えるようにするために、彼がともすものです。今日、聖霊は多くの神の子たちを通して、あらゆる所で人を捜しておられます。これが福音です! 福音は人が神を尋ねることではなく、神が人を尋ねることです。主イエスが天から下って来て人を尋ねられただけでなく、聖霊も下って来て人を尋ねておられます。イエスが生まれたのは福音です。なぜなら、彼は罪人を尋ねにやって来たからです。聖霊が下って来たことも福音です。なぜなら、彼も罪人を尋ねにやって来たからです。
特効薬を発明する人は必要であり、特効薬をあなたに紹介する人も必要です。今日、神もこのように行なっておられ、あらゆる所に人を遣わして罪人を尋ねておられます。主イエスは弟子たちに言われました、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコに福音書第16章15節)。今日、神は千万のクリスチャンを遣わして聖霊によって福音を人に伝えさせています。ですから、クリスチャンがなぜ煩わしいのかを不思議に思わないでください。彼らがあなたと接触するとき、あなたが救われるまで常に福音を勧めてきます。これは、神があなたを尋ねておられるからであり、あなたがここにいても、そこにいてもクリスチャンはやって来てあなたを尋ねます。あなたは自分から神を尋ねたのではなく、神があなたを尋ねられたのです。神はあなたの家族を通してあなたを尋ね、あなたの友人を通してあなたを尋ね、福音ビラを通してあなたを尋ねられます。神は全地で人を尋ねておられることをあなたは知る必要があります。神は大々的に人を尋ねられます!聖霊は大々的に人を尋ねられます! 今日、聖霊はあなたを照らし、あなたを捜し出します。友人のみなさん、もし、あなたは神があなたを尋ねているということを見たなら、すばらしいです。救われることは、あなたが何を行なうかの事柄ではなく、あなたが必要であるかどうかの事柄です。あなたは、行なう力がなく、できないから救われることができないと言ってはなりません。できないということはありません。なぜなら、これはあなたが行なうことではなく、神が行なわれることであるからです。
救いの道は近い
主イエスはすでに来られ、聖霊はすでに来られたので、あなたはただ受け入れるだけです。ローマ人への手紙第10章6節から9節は言います、「信仰に基づく義はこう語っています、……『言葉はあなたに近い.あなたの口の中に、またあなたの心の中にある』……あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます」。あなたはただ信じて告白するなら、すぐに救われます。あなたは何キロも歩いて救われる必要はありません。また、多くの働きをして救われる必要はありません。あなたは今、救われることができます。なぜなら、贖いの事柄は神が行なわれたものであり、主イエスが成し遂げられたものであり、聖霊が彼のしもべを遣わしてあなたに伝えたものであるからです。事はすでに成し遂げられ、問題はすでにすべて解決されました。あなたは何も行なう必要はなく、ただ信じ、ただ受け入れるだけで救われます。
二人の救われた物語
ある伝道者は、彼自身が経験した物語を語ってくださいました。そのとき、彼は、名義上は伝道者でしたが、実は彼は主の救いをまだ知りませんでした。ある日の夜、彼は眠ろうとしたとき、突然ある人があわてた様子で彼の戸をたたきました。彼が出て見ると、一人の若い女の子でした。女の子は言いました、「わたしの母が病気でもうすぐ死んでしまいます。わたしは一人の牧師を探してほしいと母に頼まれました」。その伝道者は断る理由がないので、彼女について行きました。彼らはあまり評判がよくない地域に入りましたが、仕方なく彼はついて行きました。すると、ある女の人が横になっているのが見えました。彼女は病でもうじき亡くなります。その女の人は牧師が入って来るのを見ると、喜んで言いました、「わたしは神の王国の外にいる者です。わたしはそこに入りたいのですが、どのようにして入るのかを教えてください」。伝道者は言いました、「小さいときから良いことを行なう必要があります。この世で主イエスより良い人はいません。彼はわたしたちの模範であり、わたしたちは彼が人を愛し、熱心に人を助けることに倣う必要があります。このようにしてわたしたちは入ることができます」。女の人は言いました、「あなたのこれらの言葉は、体が健康で、時間のある人に対して語ることができます。わたしは死の戸口に横たわっている人です。わたしには時間がありません。あなたが言うこの道はとても遠く、わたしのような間もなく死ぬ人は歩くことができません。牧師さん、教えてください。わたしがすぐに入ることができる道はないのでしょうか? わたしは入りたいのです」。女の人は目に涙を浮かべながら、非常に失望して言いました、「先生! 生涯、罪を犯し続けた一人の女は、今、死の戸口に横たわっています。あなたは彼女が神の救いに入ることができる言葉を持っていないのですか?」。
この伝道者は後に証しして言いました、「その日は、わたしが長年伝えていたものが福音ではなかったことを初めて知った日でした。ここにまもなくハデス[陰府]に行こうとしている女の人がいますが、わたしはどのようにして滅びから免れ、救いを得るかを彼女に告げることができませんでした。わたしは入ることを切望している人に直面していますが、どのようにして入るのかを告げることができませんでした。そのとき、初めてわたしは自分が間違っており、わたしが語ったメッセージが間違っており、わたしが人を導いた道が間違っていることを感じました。この道はとても遠く、わたしは彼女を連れて入ることができません」。
伝道者はそこで十分ほど顔を伏せて沈黙しました。その女の人も語らず、完全に失望して涙を流しました。それから、彼は小さいころに母が彼に告げたことを思い出しました、「神は、彼の御子をわたしたちに与えたほどにわたしたちを愛されました。それはわたしたちが彼を信じ、罪定めされず、永遠の命を得させるためです」。彼は、この言葉は子供に対して語られるものであって、彼のような人には使えないと思っていました。しかし、彼がこの言葉を思い出してその女の人に言いました、「神はわたしたちを愛し、彼の御子をわたしたちに与え、わたしたちの罪のために十字架上で死なれました。今日、彼を信じ、彼の救いを受け入れるなら、滅びから免れ、永遠の命を得ることができます」。その女の人は涙を浮かべながら笑って言いました、「あなたはなぜ早くわたしに告げなかったのですか? わたしに必要なのはこれです。わたしは生涯、罪を犯してきました。わたしは罪を犯しただけでなく、娘にも迷惑をかけました。わたしは罪人です。わたしは救われる必要があります」。その日、その女の人は入り、伝道者自身も入りました。その女の人は救われ、伝道者自身も救われました。友人のみなさん、神がわたしたちを救われる道はそんなに遠くありません。今日あなたが救われるために、ただあなたの心を開いて主イエスを受け入れ、あなたの口を開いて主イエスを告白すれば、直ちに救われます。あなたは何も行なう必要はなく、ただ主の御前に来て、心の中で主イエスが行なわれたことを信じ、口でイエスは主であると告白すれば十分です。
父の遠くからの迎え
これによって、わたしたちはルカによる福音書第15章の三つ目のたとえにもたらされます。放蕩息子が家を離れてさまよい、そしてある日、彼は本心に立ち返って言いました、「立って父の所に帰り」ます。放蕩息子は心の中で向きを変えるだけで十分です! なぜでしょうか? それは、「彼がまだ遠く離れていたのに、父は彼を見て深く同情し、走り寄って彼の首を抱き、愛情を込めて口づけした」からです(20節)。この聖書の言葉はどれほど人を慰めることでしょうか! 父はどのようにして放蕩息子を受け入れたのでしょうか? まだ遠く離れていたときに彼を受け入れていました。まだ家から遠く離れていたときに、父は走り寄って行きました。父が出てきて彼を迎えたのであり、彼が戸をたたいたのではなく、彼が方法を考えて家に入ったのではなく、父が走り寄って来て彼を迎えたのです!
この三つのたとえからわたしたちは救いが何であるかを見ます。救いは、主イエスにおいて神がわたしたちを尋ねられ、聖霊において神が彼の子たちを通して各地でわたしたちを尋ねられることです。もし、わたしたちが神を求める願いが少しでもあるなら、神は出てきてわたしたちを迎えてくださいます。わたしたち自身が走り寄るのではなく、彼がわたしたちを連れて行ってくださいます。わたしたち自身が自分を救うのではなく、彼がわたしたちを救われます。友人のみなさん、あなた自身があなたを救うのではなく、神があなたを救うのです。あなたは心の中で彼を信じ、口で彼を告白すれば十分です。この道は遠くなく、とても近いです。彼は遠い道を歩んで来られました。彼は天から地上に来られ、長い道のりを経てわたしたちを尋ねられました。わたしたちはもはや遠い道を歩く必要はありません。わたしたちの道はこれ以上に近いものはありません。もう機会を逃さないでください。今、彼を受け入れてください!
詩歌(イエスやさしく呼びたもう) 習志野に在る教会作成
記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第2巻より引用