「違犯のためのささげ物は愚か者たちをあざける」(箴言第14章9節)
人生には多くの問題があり、その中で深刻な問題は「罪」です。罪は最も人を悩ませます。わたしたちは人生の中で常に罪に悩まされています。自分自身を見て、周りの人たちを見て、それから家庭と社会を見るとき、あらゆるところに罪深いものがあります。わたしたちが落ち着いて、真剣に自問するなら、人生は罪に満たされていると、内側の良心は認めるでしょう。わたしたちは、自分自身の行ないを審査するなら、欠け目と不義に満ちていることを見いだすでしょう。もし、家にいる他の人を審査するなら、わたしたちは同じように頭を垂らして、自分の家庭は輝かしくないと言うでしょう。そして、視野を広げて社会の状況を見ると、あらゆるところで罪深い、邪悪なことに満ちていることを見ます。新聞であれ、ニュースであれ、テレビであれ、日々の報道は、見るに堪えないものばかりです。これは、人の思うことは悪と腐敗に満ちていることを意味します。
罪は非常にいやなものです! 人の内側で問題を起こし、願わないことを人に行なわせます。それは殺人者のように多くの命を殺害し、多くの家庭を破壊し、多くの人生を踏みにじってきました。それはまた、悪賢い誘拐犯のようであり、名誉、地位、お金、異性などを用いて無数の魂をだまし、死へと送り届けていました! ある時、人の良心は不安を感じ、理性もそのこうかつさを見抜きますが、その爪から真に逃れた者は何人いたでしょうか? 罪の権威から逃れて、その支配を受けない者はいるでしょうか? それに束縛されず、また罪を犯さない者はいるでしょうか? いません! 「一人もいません!」。
例えば、あなたは教授、または大学生であり、自分は他の人より清く、礼儀正しいと思うかもしれません。しかし、あなたは罪の支配を受けず、罪につまずかないと言えるでしょうか? あなたは内側にある高ぶり、嫉妬、恨み、短気に勝つことができるでしょうか? あなたは、自分にまとわりついて、あなたを支配する邪悪な情欲に勝つことができるでしょうか? 古今東西において、罪の束縛から逃れて罪の支配を受けない者はだれもいません。どうしてでしょうか? それは、罪の問題が外側ではなく、内側にあるからです!
罪はあなたの「内敵」であって、「外敵」ではありません。それはあなたの内側に潜伏し、生きていて、あなたの主人となっています! それはあなたの内側で王として、あなたを統治し、あなたを制限し、あなたを捕虜とし、あなたの自由を完全に失わせています。あなたは罪を犯さざるを得なくなります。ですから、聖書ではこのように告げています、「わたしは肉であって、罪の下に売られているのです」(ローマ人への手紙第7章14節)。また、「罪を犯している者はすべて罪の奴隷である」(ヨハネによる福音書第8章34節)と告げています。
あなたが初めて罪を犯したとき、良心は何のとがめもありませんでしたが、罪があなたの内側で支配しているので、あなたは少しも逃れることができません。あなたがどんなに力を尽くしてもがいても、罪の支配と束縛から逃れることができません。なぜなら、あなたは罪の支配の下にあって、罪の奴隷となっているからです。
「だれでもそれぞれ自分の心の災いを認識し」(列王記上第8章38節)
聖書である事例が記載されています。聖書学者たちとパリサイ人が姦淫の時に捕まった女を主イエスのところに連れて来て、主に尋ねました、「ところで、あなたは何と言われますか?」。聖書学者とパリサイ人は当時の社会において最も高く、最も道徳のある人であると見なされています。また、彼らは最も自分を義とする人たちです。彼らが主イエスのところに来た時、彼らの感覚において、あの女だけが罪を犯しており、彼らは罪を犯していないと思っていました。そして、彼らがそのように尋ねたのは、主イエスを試すためであり、彼を訴える口実を得ようとしていました。律法によれば、その女は石打ちにされるべきでした。もし、主イエスがその女を石打ちにしてはならないと答えたなら、彼は律法に背きます。もし、彼が彼女を石打ちにすると答えたなら、彼は罪人を救いに来たのではなくなってしまいます。ですから、彼らはそのように主イエスに難題を与え、得意になっており、とても横暴でした。
しかしながら、主イエスは答えました、「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書第8章7節)。彼らがこの話を聞くと、老いている者から若い者まで一人一人出て行きました。彼らの最初の意図は主イエスを困らせることでしたが、主イエスの答えは彼らの良心に触れ、彼らが偽善者であることを暴露しました。彼らは老いている者から行動したことに注意してください。多くのとき、老いている者の良心はもろいものです。年齢が高ければ高いほど、犯す罪は多くなり、良心は穴と汚れに満たされています。こういうわけで、老いている者が率先して去りました。最終的に、すべての者が罪のゆえに去りました。彼らの良心が自分たちに罪があることを証明しました。同じように、もし、あなたが真剣に自問するなら、自分を罪定めするでしょう。ですから、あなたの良心には、ある罪の病による重荷があります。今日、多くの人はこの罪の病によって消耗しています。一面、罪は神に対して罪を犯します。もう一面において、罪は人を汚します。罪の病は何でしょうか? 罪の病とは、良心における罪の汚れです。人は若いときには、少ししか良心は汚れていません。しかし、成長すればするほど、これらの汚れは堆積していきます。
罪の汚れ、良心の訴えによって、人の内側に平安がなくなります。境遇が順調である人は大抵このようです。彼らは心地良いソファに座り、最上のベッドで寝ます。通常なら、とても心地良いのですが、彼らの内側には罪があります。外側では心地良いのですが、内側には苦痛があり、座っていても平安がなく、横になっていても平安がありません。このような人が最も平安な時間、最も平安な場所にいたとしても、平安がありません。なぜなら、彼の心の中に罪の病があり、良心が彼を訴えているからです。それによって、彼には平安がなく、喜びがありません。たとえば、ある人が隠れて非道徳的で、不名誉なことを行なったとします。彼が行なっている時は、情欲を放縦して喜びがあるように見えますが、人に知られることを恐れて、良心に背いて偽ります。妻が彼に行き先を尋ねても、彼は正直に言うことができません。また、子供たちにも背き、年配の両親にも知られることを恐れます。彼の外側の環境はとても心地良いのですが、彼の内側は心地悪く、平安がありません。人の良心が正直でないなら、喜びと平安がありません。
「わたしたちは御前で、心を安らげるでしょう」(ヨハネの第1の手紙第3章19節)。
神の御前で心を安らげるということは、とがめのない良心を持つことによって、わたしたちの心が慰められ、服従し、堅固になり、静まるということです。わたしたちの良心にある罪の病による汚れを清めることができるどんな洗剤、化学薬品、酸性物質もありません。わたしたちの良心は、これらよりもさらに有能なものが必要です。わたしたちの良心は、キリストの尊い血が必要です。ヘブル人への手紙第9章14節は言います、「キリスト……の血は、なおさらわたしたちの良心をきよめて」。キリストの血だけがわたしたちの良心を清め、すべての罪の病を取り除く力を持っています。
キリストの血はどのようにしてわたしたちの良心のとがめを洗い清めるのでしょうか? たとえば、あなたが車を運転し、交通違反をして違反切符を受けたとします。そのとき、あなたには三重の問題があります。まず、あなたは法を犯しました。次に、あなたは政府からの罰金という負債を持ちます。第三に、あなたは違反切符を受けることで、罰金を支払うことを思い起こさせられます。あなたが無一文で、罰金を支払うことができなかったとしても、違反切符を捨てれば良いわけではありません。警察には原本があるので、罰金を支払わないなら、問題は大きくなります。このたとえは、あなたが毎回罪を犯したときに起きたことを説明しています。まず、あなたは神の律法を犯し、神に罪を犯しました。第二に、あなたは神の律法に対してとがめを受けています。ローマ人への手紙第6章23節は言いますが、罪の報酬は死です。これは厳しい罰金であり、あなたは支払うことができません。第三に、あなたの良心に罪の病があります。これは、あなたのポケットにある違反切符があなたの違反について思い起こさせることと同じです。
今や良い知らせがあります。主イエスが十字架上で死なれたとき、彼の死によって、あなたに対する神の律法の要求が完全に満たされました。言い換えれば、あなたの罪の負債はすでに支払われたということです。ですから、神は罪を問うことなく、罪の負債はすべて清算されました。しかしながら、あなたの良心はどうでしょうか? 罪の病の汚れは違反切符のように、あなたの罪を記録しています。これが、キリストの血があなたの良心を清める必要があるという理由です。キリストの死によって、罪の負債はすでに清算され、彼の血は今や負債の記録を消すことができます。それは、罰金が支払われて違反切符を破り捨てることができることと同じです。また、あなたの良心においても、罪の病の汚れは完全に取り除くことができます。イエスは罪を赦すために血を流されました。あなたが彼を信じるなら、あなたの罪は赦され、良心における罪の痕跡も清められ、もはやあなたは罪を感じなくなります! ですから、あなたの良心もとがめられることがなく、平安を持つことができます。
「もしわたしたちの心がわたしたちをとがめないなら、わたしたちは神に対して大胆さを持ちます.そして、わたしたちが求めるものは何でも、彼から受けます」(ヨハネの第1の手紙第3章21節一22節)。
落ち着いた心の中でとがめのない良心は、わたしたちが神に祈り求める道をまっすぐにし、きれいにすることができます。内側で罪の病を感じるときはいつでも、あなたはこのように神に祈ることができます、「神よ、今日わたしが行なったことを赦してください。主よ、感謝します。あなたは十字架上でわたしのために死なれ、わたしが犯した罪のために代価を払ってくださいました。主よ、わたしはあなたがこの罪を赦してくださったことを信じます。今、あなたの尊い血を用いてわたしの良心を清め、すべての罪の病による汚れから逃れさせてください」。あなたの良心がキリストの血によって清められ、内側で罪定めがなく、叱責がないとき、あなたは神に向かって大胆になり、落ち着いて神に触れ、彼と交わり、彼に尋ね求めることができるようになります。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの第1の手紙第1章9節)。
良心は部屋の窓にたとえることができます。窓の外の天から光が射し込んできます。また、わたしたちはこの窓から外を見ることができます。部屋の窓が汚れたなら、きれいにする必要があります。もし、あなたは過ちを認めず、罪を取り除かないなら、罪の痕跡は残り、良心も汚れます。罪の上にまた罪が加わり、一つの痕跡の上にもう一つの痕跡が加わるとき、あなたの窓は日々暗くなっていき、光が入ってくることが難しくなります。そうするなら、あなたの内側は日夜暗くなります。逆に、もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神はわたしたちの罪を赦してくださるだけでなく、わたしたちの不義をも清めてくださいます。わたしたちは一つの罪を告白し、一つの不義を対処するたび、わたしたちの汚れに満ちた窓が一回拭かれたような感じになります。不思議なことに、ガラスを拭かなければ、汚れていると感じませんが、拭けば拭くほど汚く感じます。少し拭くだけで、それらの汚れが活動するように感じます。光が入ってきたとき、ますます汚く見えます。しかしながら、最後まで拭くとき、きれいになります。
キリストの尊い血の力によって、あなたは罪の病による汚れから逃れた良心を享受することができます。あなたは大胆に神の御前に来ることができます。あなたの良心はキリストの血によって罪の病から逃れました。それは、拭き終わったばかりの窓のように、清く、明るく、光に満ちています。
詩歌(悲しみの闇から) 習志野に在る教会作成
記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第1巻より引用