福音の鍵 真

福音メッセージ

「空の空、すべては空である。……日の下に新しいものは何もない」
(伝道の書 第1章2節、9節)

現在の科学が発達し、コンピューター、インターネット世代において、一台のパソコンや携帯電話でみなインターネットのクラウドに繋がることができ、そこで遊び回り、上の天文を知り、下の地理を知り、また友達を作り、買い物をし、仕事をすることができます。多くのコンピューターゲームとバーチャルのネット世界は絶えず発展し、日進月歩して、今や多くの人がその中に捕らえられて抜けられず、現実と仮想を分けることができなくなっています。ある人は現実の生活よりも、この仮想の世界の中に生きることを願っています。このようにして、多くの社会問題、さらには犯罪の問題にまで派生しています。

当然ながら、大多数の人は現実の世界に生きていますが、この世界は真実でしょうか? 人と人の接触は誠実でしょうか? 多くの人はこのことに関して疑問を抱いています。なぜなら、自分自身もよく偽りの見せかけをしており、人の前ではこのようですが、人の背後では別のようになっているからです。多くの人は小さい頃から、この鮮やかな世界の中で活躍し、絶えず上を目指して良い成績を競い、優秀な学校に入り、良い仕事を見つけて、この世の中のすばらしい生活のすべてを享受することを夢見ていました。

歴史上にソロモンという一人の王がおり、彼には比類のない知恵、至高の地位、莫大な財産、王妃とそばめを数百人以上持っていました。彼は天下のすべての物事を専念して追究し、また情欲のままにこの世のすべてを享受しました。しかし、彼の観察によれば、自然の現象にしたがって、万物は循環しており、一世代、一世代はみな同じであることを見いだしました。一つのことがどんなにすばらしく、超越しており、不思議であったとしても、この世のものであるなら、最終的にそれは「日の下には空の空」でした。ですから、彼は人生に対して結論づけて言いました、「空の空、すべては空である。……日の下に新しいものは何もない」。

日の下のすべてのもの、どんな人に関しても、知恵のある者も、愚かな者も、勤勉な者も、怠惰な者も、富んでいる者も、貧しい者も、年長の者も、若い者も、高い地位にいる者も、低い地位にいる者も、義を行なう者も、悪を行なう者も、善を行なう者も、罪を犯す者も、彼らの生まれがどうであっても、成功がどうであっても、終わりのときには、この人生は朝露の如し、結末は空の空であると言わざるを得ません。

「恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである」
(ヨハネによる福音書 第1章17節後半)

「真理の中を歩いている」
(ヨハネの第2の手紙 4節)

聖書は、人が神の姿とかたちにしたがって造られたと告げています。ですから、神は最高の、最も尊い定められた御旨をもって人を造られました。それは、人が命、性質、表現において神と同じになり、神を表現するためです(創世記 第1章26節)。しかし、残念なことに神の敵、悪魔サタンは人が造られた後に、人を騙し、神の定められた御旨にしたがって造られた人の中へ、自分自身を罪として注入しました。この堕落の故に、人及び神が人に管理するように託したすべての被造物も朽ち果てる奴隷状態にもたらされ、虚無に服従させられました(ローマ人への手紙 第8章20節―21節)。こういうわけで、腐敗したこの世の人生も虚無となっています。ですから、この世のすべての栄華や富を享受し尽くしたソロモン王でも、日の下にあるすべての積極的と消極的な人生経験を経過した後、人生の結末は空であると断定しました。しかし、彼は完全に失望したわけではありません。なぜなら、彼は空から逃れる道を見いだしたからです。それは、神に立ち返り、神を人の内容、真実、すべてとすることです(参照、伝道の書 第12章13節)。

人は神に立ち返るなら、救われてむなしさから逃れ、真理を知り、真理の中で歩むことができるようになります。主イエスはかつて彼を信じる者に言われました、「あなたがたは真理を知る.そして真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネによる福音書 第8章32節)。また、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのである」(36節)と告げました。この二節から、真理は神の御子であり、イエス・キリストご自身であることを見ることができます。この真理は教理上の真理ではなく、神聖な事物の実際です。主イエスは神の具体化であり、神であることの実際です。ですから、実際とは神の神聖な要素がわたしたちの中に入り実際化したものです。この真理は、実際、真実、誠実、もしくは真実な事物、真相であり、むなしさ、偽り、欺き、偽装、偽善と相対します。

この他に、聖書の中でも、「恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである」(ヨハネによる福音書 第1章17節後半)と告げています。恵みは、人によって享受された神であり、実際は、人に実際となる神です。「神は光である」と言うのは、ただの教理であり、実際がないかもしれません。しかし、人が神にあずかり、光としての神を経験するとき、彼は光の実際としての神を得ます。恵みと実際はイエスを通して来たことは、イエスがわたしたちと共におられるとき、わたしたちに恵みと実際があることを示します。わたしたちが「真理の中を歩」(ヨハネの第2の手紙 4節)くことができるのは、イエスがご自身の神聖な命をわたしたちの中に分与することによって、わたしたちの真実と誠実となるからであり、それによってわたしたちは神であることにふさわしい生活をすることができます。このような生活は、偽り、偽善、むなしさではなく、真実、誠実、信頼できる、頼ることができる、忠信なものです。

飲食、祭りである「これらは来たるべき事柄の影であって、その本体はキリストにあります」
(コロサイ人への手紙 第2章17節)

日常生活の中で、わたしたちは衣食住が必要であり、車で移動したり、娯楽を楽しんだり、休暇を取得したりして、生活に楽しみを持つ必要があります。しかしながら、聖書では、飲食、祭りであるこれらは影であって、その本体はキリストであると告げています(コロサイ人への手紙 第2章17節)。食物は人の満足と力付けることであり、祭りは人の喜びと享受です。当然これらは人生の中で必要なことですが、考えてみてください、あなたが美味しい食事を享受し終えた後、あなたは完全に満たされたのでしょうか? 実際は、あなたが食事をした後、また次の食事を欲します。あなたが新しい服を買った後、その服を着てからまもなく、すぐにもう一枚買いたいと思います。それは、まるでクローゼットに服が足りないかのようです。あなたの住んでいる家は豪華で心地良いかもしれませんが、あなたが最もこだわりのあるベッドに寝たとしても、なお眠れないときがあります。多くの祭りの興奮と遊びの後にさらに大きいむなしさを感じます。わたしたちの生活で必要なこれらの各面は、聖書で告げているようにすべて影であり、わたしたちに真の満足を与えることができません。

イエスが地上におられたとき、あるとき、祭りの終わりの日に、彼は立って叫んで言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」(ヨハネによる福音書 第7章37節)。なぜ彼は祭りの終わりの日に、立ってこれらの言葉を言われたのでしょうか? なぜなら、祭りの終わりの日において、人々が数日の楽しみを経過し、まもなく離れるとき、むなしさがやってくるからです。そのとき、イエスは、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」と言われました。さらに、「わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(38節)と言われました。ここの「生ける水」と「最も内なる所」はたとえであり、この救い主が生ける水のようにわたしたちの中に入ってきて、わたしたちの渇きをいやすことを示しています。

詩歌203:生ける水の川(調布に在る召会作成)

それだけでなく、聖書はなおこのように告げていますが、彼は人を贖うために十字架に釘付けられて復活した後、弟子たちの間に戻って、彼らに息を吹き込んで言われました、「聖霊を受けよ」(20章22節)。ギリシャ語原文において、霊と息は同じ字であるので、「聖なる息を受けよ」とも訳すことができます。これは、わたしたちに対して、イエスは空気のようであることを示しています。今日、万物が生存することができるのは、完全に命の息によります。空気がなければ、すべての生物は生存することができません。空気は隠れたしるしの一つであり、主イエスがその実際です。彼は真の空気です。彼はわたしたちの中に入り、わたしたちの実際の命となり、わたしたちの内側にあるむなしさを解決してくださいます。

主イエスは命の水であるだけでなく、実際の命の息であり、わたしたちの命のパンであって、わたしたちは彼を食べることによって、永遠に飢えることはありません。主イエスが地上におられたとき、かつて人々にこう言われました、「わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(6章35節)。古今東西において、だれ一人このように大口を叩く人はいませんでした。このような言葉は、ただ宇宙を創造された神だけが語る事ができます。この宇宙を創造された神はキリストであり、彼はこれらすべての影の実体です。日、月、年において彼はわたしたちにとってみなすべての積極的な事物の実際です。

「こういうわけで、わたしはこの事を言い、また主の中で証しをします.もはやあなたがたは、異邦人が彼らの思いのむなしさの中を歩くように、歩いてはなりません……イエスにあるあの実際」
(エペソ人への手紙 第4章17節21節)

わたしたちはキリストを知る前、聖書で告げている異邦人が思いのむなしさの中を歩くように、わたしたちも堕落した虚無に服従させられていました。わたしたちは思いの中でむなしく、心の中でかたくなになっており、理解することで暗くなり、自分の知識の中に神を持つことを認めようとせず、感覚を失い、自分自身を淫蕩にゆだねて、飽くことなくあらゆる不潔を行なっています。今日におけるこの世の状況を見れば、人がいかに良心の感覚を顧みずに、放蕩してあらゆる良識の感覚がないことを行なっていることがわかります。

しかしながら、わたしたちがイエスを信じて、バプテスマしてキリストに帰すなら、わたしたちは再生され、イエス・キリストにあるあの実際の中に置かれます。これは、練り粉のかたまりを鋳型の中に入れるように、わたしたちが鋳型としてのイエスの中に入れられることを意味します。神はわたしたちを鋳型としてのキリストの中に入れられました。この鋳型は四福音書の中に記されているイエスの生活であり、完全に実際にしたがった生活です。実際は真理であり、光の輝き、光の表現です。神は光であるので(ヨハネの第一の手紙 第1章5節)、実際(真理)は神の表現です。福音書で記されているイエスの生活は、すべての面において神を表現しています。主イエスが地上で生きておられたとき、彼はむなしさの中を歩まれたことがなく、むしろ常に実際の中で歩み、神聖な光の輝きの下で歩まれていました。これは、主イエスの生活と歩み、彼の語ることと行なうことのすべてが神と一であり、神を表現していることを意味します。

わたしたちがイエスにあるあの実際の鋳型の中に入れられたのは、自分の天然の命をもって彼に倣い、彼から学ぶためではありません。わたしたちが信じることを通して彼の命をわたしたちの中に受け入れることによって、彼の命は、わたしたちを彼の生活の実際の鋳型にしたがって彼を生きるようにさせてくださいます。この生活は光の輝きであり、実際であり、真理であって、この実際と真理は神の表現です。

これはわたしたちがむなしさから逃れる救いの道です。わたしたちが思いを神に向け、命の救い主としてのイエス・キリストを受け入れるなら、もはやわたしたちはむなしくなることはなく、思いのむなしさの中を歩くことはなく、神の命を持ち、イエス・キリストにある実際の中で、すなわち実際と真実に満ちた命の光の輝きの下で生活することができます。

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第3期第5巻より引用

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