朗読(忙しい①) 習志野に在る教会作成
「さて彼らが進んで行った時、イエスはある村に入られた.するとマルタという女が、彼を家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、マリアは主の足もとに座って、主の言に聞き入っていた。ところがマルタは、あれこれともてなしすることで取り乱していた.彼女は近づいて来て言った、『主よ、わたしの姉妹がわたし一人にもてなしをさせているのに、何とも思われないのですか? わたしと共に彼女の分を果たすよう、彼女におっしゃってください』。主は彼女に答えて言われた、『マルタ、マルタ、あなたは多くの事で思い煩い、心配している.しかし、無くてならないものは、ただ一つである.マリアはその良い分を選んだのだ.それを、彼女から取り上げてはならない』」(ルカによる福音書第10章38節―42節)。
ルカによる福音書第10章は、マルタがあれこれともてなしすることで取り乱して、思い煩っていることを描写しています。「取り乱す」は、簡単に言えば「忙しくて手が回らない」ことであり、それはまた多くの人たちの生活の描写です。今の人々はよく言いますが、「わたしは忙しい、忙しすぎます」。彼らは昼も夜も働いており、暇な時は一瞬たりともありません。彼らの重荷は本当に重いように思えます。しかしながら、わたしたちを忙しくさせているものとは、大事なことでも、重要なことでもありません。かえって小さく、種々雑多なことにすぎません。これらのことはわたしが行なわなければならないのでしょうか? もしわたしたちがすべての仕事についてこのように吟味してみるなら、多くの項目がわたしたちの日課からはずされていくことでしょう!
漢字はとても興味深いです。「忙しい」という字は、心が立って(りっしんべん)、亡くなると書きます。ですから、忙しくなると心が出て行ってしまいます。人々が外側で忙しくなる結果は、心が亡くなり、心を失います。やる事が多くなり、忙しくなると、わたしたちの心は乱され、わたしたちの内側にある安らぎが失われます。わたしたちは確かにこのような忙しさの中から救われる必要があります。
朗読(忙しい➁) 習志野に在る教会作成
「あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった.あなたがたが家に持って来たとき、わたしはそれを吹き払った。なぜか? 万軍のエホバは告げられる。それは、わたしの家が廃虚となっているのに、あなたがたはそれぞれ自分の家のために奔走しているからである」(ハガイ書第1章9節)。
この節の「奔走」は、旧約のイスラエルの民が自分の家を顧みることに忙しくなり、神の家を荒廃させたことを示しています。それによって、彼らが家に持ってきたものは、神によって吹き払われ、すべては無駄になりました。実は、多くの忙しい事柄は必要のないことであり、何も得られない忙しさです!立ち止まって考えてみてください。わたしは本当にこのように忙しくしなければ、成功しないのでしょうか? それによらなければ生活できないのでしょうか? 多くの時、そのような忙しさは不必要であり、無用です。ところが、それでもわたしたちは目が回るほど忙しくしています。これはサタンの扇動によるものか、環境において強要されるかのどちらかです。サタンの方法は引き戻そうとするか、推進させるかのいずれかです。もしわたしたちを退かせることができず、わたしたちの前進を阻止できない時、彼はわたしたちを押し出して、極端に走らせます。多くの忙しさは彼が扇動したことによるものです。また、社会環境は働くことに対し、ある水準を要求し、少しも暇な状態にはしません。毎時毎分、それはわたしたちに働くように強要してきます。多くの時、わたしたちはそんなに忙しくしなくても、問題なくやっていけます。わたしたちが忙しいのはサタンの扇動と環境からの刺激を受けた結果であって、それは必要のないものなのです。この二つの主人、すなわちサタンと環境は何と過酷でしょう! 自分たちが何のために行なっているのか、わたしたちに分からなくさせます。
朗読(忙しい③) 習志野に在る教会作成
「人が全世界を手に入れても、自分を失ったり損失を被ったりしたら、何の益があるだろうか?」(ルカによる福音書第9章25節)。
主イエスは一つのたとえを語ったことがあります、「ある金持ちの土地が豊作であった。そこで、彼は心の内で思い巡らして言った、『どうしよう?作物を取り入れておく場所がない』。彼は言った、『こうしよう.倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに小麦も財産もすべて取り入れておこう。そして自分の魂にこう言おう.魂よ、何年分もの財産が蓄えられている.休んで、食べて、飲んで、楽しめ』。しかし、神は彼に言われた、『愚かな者よ、今夜、彼らはあなたの魂を取り去ろうとしている.そうすれば、あなたの用意したものは、だれのものになるのか?』。自分のために宝を蓄えても、神に対して富んでいない者はこのとおりである」(ルカによる福音書第12章16節―21節)。わたしたちは多く働けば、多く得るわけではないということを知るべきです。漁師が漁だけをして、網を繕うことに時間を費やさなければ、網が破れたときに魚は逃れて、何も得ることなしに終わってしまいます。
ある姉妹の夫は、十数人の子供たちを残して亡くなりました。彼女は家事などで非常に忙しかったのですが、毎日のように祈り、聖書を読み、神と交わりをしていました。毎晩の九時に部屋に入り、戸を閉じて一時間後に出て来ます。子供たちは彼女が部屋で何をしたのかを知りませんでしたが、部屋から出て来るときに、顔が輝いていることを見ていました。ある日、彼女の息子は九時前にこっそりと母の部屋に忍び込み、床の下に隠れました。母が入って来て床の前でひざまずいてこう祈るのを見ました、「主よ、わたしの体は疲れており、精神的にもそうです。わたしに力を与えて、忙しくても常にあなたと交わりができるようにしてください」。この姉妹は祈った後に、聖書を読みました。読んで祈り、約一時間してから出て来ました。多くの人は、自分が忙しいと思い、環境が良くないと思っています。しかし、どんなに忙しくても、あの姉妹のように祈る時間を取り出すことができます。彼女は忙しくて取り乱したりしていません。また本分も放棄していません。それは最上の祝福を得るためです。このように忙しさに代えて祈ることは、忙しく行なったことよりも多くのことを成し遂げます。
朗読(忙しい④) 習志野に在る教会作成
「今の日々は邪悪ですから、時を贖い取りなさい。こういうわけで愚かであってはなりません.かえって、何が主のみこころであるかを理解しなさい」(エペソ人への手紙第5章16節―17節)。
古人の言葉によれば、「時は金なり、金で時は買えない」です。しかし、わたしたちはこの道理を知っていながら時間を無駄にして、後で後悔しています。聖書はわたしたちにこう教えています、「今の日々は邪悪ですから、時を贖い取りなさい」。この邪悪な世代において、日々は邪悪な事柄に満ちていて、わたしたちの時間を無効にし、短縮し、奪っています。ですから、わたしたちの歩みにおいて、時を贖い、活用できるすべての機会を捕らえるために、知恵がなければなりません。主のみこころを知ることは、わたしたちが時を贖う最上の道です。わたしたちのほとんどの時が浪費されているのは、主のみこころを知らないからです。
ルカによる福音書第10章の物語において、マルタは多くの事を行ないましたが、主は告げました、「無くてならないものは、ただ一つである」。無くてはならないものは、多くありません。あなたはそこで、この事を考え、あの事を考え、この事を行ない、あの事を行なって多くの事を行ない、多くの事を考えたようですが、無くてはならないものは、ただ一つです! わたしたちは実に損をしている者であり、この最上の事を行なうことを知らないのです。この無くてはならないものは何でしょうか? 他でもなく、それはキリストであり、またマリアが選んだものです。主イエスは、彼が救い、また彼を愛する者が、彼のために多くの事を行なっていても、彼の御旨を理解しないことよりも、彼の言葉を聞き、彼のみこころを知ることを願われます。この無くてはならないものは、どのようにして得るのでしょうか? それは、静かに、穏やかに主の御前でとどまることであり、これはまたマリアが行なったことです。
朗読(忙しい⑤) 習志野に在る教会作成
友人のみなさん、この神はあなたの中に住むことを願います。もし、あなたが彼を享受したいなら、あなたの全存在を心の深いところに戻す必要があります。人は外に出て行っても、天にさえ行ったとしても神を見いだすことはできないということを知る必要があります。あなたは今日、天には行けないと言いますが、行ったとしても彼を見いだすことはできません。なぜなら聖書はわたしたちにこう告げているからです、彼は「あなたに近い.あなたの口の中に、またあなたの心の中にある……あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます.なぜなら、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからです」(ローマ人への手紙第10章8節―10節)。あなたは外に出て行って彼を探す必要はありません。彼はあなたにとても近いのです。近いだけでなく、あなたの中におられ、あなたの一部となりつつあります。あなたの心が忙しいことから離れ、落ち着きますように。また、人の宗教の観念にしたがって、高く上におられる神を礼拝するのではありません。そうではなく、単純に静まって、あなたの霊の中で神と会い、神と会話し、神ご自身を吸い込み、神に、あなたの内側に住んでいただき、あなたのすべてとなっていただきます。これが祈りです。
祈りはあなたがどれだけ語ったかによるのではなく、あなたが少しの時間を見いだしてあなたの忙しい心を戻し、あなたの内側を安定させることによります。そのときにあなたは、主がわたしたちに与えた荷は軽く、容易であることを知ります。彼はわたしたちが負うことができないことを負わせようとしているのではありません。あなたが神と少し、会話し、神を吸い込むとき、あなたは命、食物としての神を得ます。そして彼はあなたの力、光、喜び、慰めとなります。あなたが必要なものは何であれ、彼がそのものです。
今、静まって祈ってください、「おお、主イエスよ、わたしはあなたを信じます。あなたに開きます。あなたがわたしの霊の中に入って来て住んでください。主よ、わたしは体が疲れており、精神的にも疲れております。わたしが忙しくても常にあなたと交わることができるように力を与えてください。主イエスよ、生活のために取り乱すことがないようにしてください。わたしのすべてとなってください。わたしは最上の祝福としてあなたを得たいです」。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第3期第2巻より引用