人生は旅のようであり、あらゆる異なる境遇があります。ある人は人生に対してあらゆる期待を持っています。ある人はあらゆる困難に遭遇し、助けを得ることを望みます。しかしながら、実際の状況は、期待は砕かれ、失望します。望みがむなしくなり、絶望的になります。人が望みを持つことができるものは何でしょうか? 人に希望をもたらすものは何でしょうか?
「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい」(ヘブル人への手紙 第12章2節)。
ヨハネによる福音書第6章である事例が記載されています。ある日の夕方、主イエスの弟子たちは海に下って行き、舟に乗り、海を渡ってカペナウムへ向かおうとしていました。すでに暗くなっていましたが、イエスはまだ彼らの所に来ておられませんでした。強い風が吹いていたので、海は荒れていました。弟子たちが二十五から三十スタディアほどこぎ出した時、彼らは、イエスが海の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐ろしくなりました。イエスは彼らに言われました、「わたしだ。恐れることはない」。そこで、彼らは喜んで彼を舟に迎え入れました。すると、舟はたちまち、彼らが行こうとしていた地に着きました。(16―21節)
荒れている海と吹いている強い風は、人生のさまざまな悩み事を象徴します。今日、わたしたちは悩み事の世界の中に生きています。この世界は完全に人を悩ませます。家庭生活、学校生活、あらゆる職業や仕事はすべて人を悩ませます。平安である人はいるでしょうか? だれも平安ではありません。あなたがどんな人であっても、あなたは悩まされており、真の永遠の平安がありません。わたしたちにはみな問題があります。あなたの結婚が最も円満であると誇ってはなりません。絶対的に円満である結婚はありません。どんな結婚でも良くない面があります。すべての結婚した者は自分が悩みの中にいることを見いだすでしょう。毎日、わたしたちは問題、重荷、思い煩いを持っており、これが人生です。
しかしながら、主イエスは海の上を歩いておられました。これは、主が人生のすべての悩み事を支配することができることを表徴します。彼は悩ます人生の波の上を歩くことができます。またすべての悩み事は彼の足の下にあります。彼はすべての波の上を歩き、悩まされているこの世の人の中へと来られ、平安を人にもたらします。わたしたちは主を、わたしたちの「舟」に迎え入れる必要があります。この舟とは、わたしたちの結婚生活、家庭、事業などです。彼がわたしたちの舟に来られるなら、わたしたちは人生の旅路で彼と共に平安を享受することができます。
主がなければ、わたしたちの人生は悩まされています。ヘブル人への手紙 第12章2節で言います、「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい」。人生におけるすべての問題、人におけるすべての困難は神に欠け、神を持たないことによります。神を持っているなら、人生におけるすべての問題に答えが得られ、すべての困難も解決されます。しかし、ここの聖書は、「イエスを仰ぎ望む」とは言っておらず、「イエスを、ひたすら見つめ」と言っています。この意味は、あなたが仰ぎ望もうとするために、何かから目を離してからでないとできないということです。あなたはまず、仰ぎ望むべきでないものから離れ、それから願っているものを仰ぎ望みます。ですから、イエスをひたすら見つめることは、他のものすべてから目を離し、単一の注意力をもってイエスに注目することです。
たとえば、わたしたちは自分の努力で自分の気性に打ち勝とうとする必要はありません。自分では勝つことができません。あなたの気性を対処するのではなく、イエスをひたすら見つめる必要があります。同じように、わたしたちは自分の弱さ、困難、悩みを忘れる必要があります。わたしたちはこれらのものから目を離して、単純にイエスを見つめる必要があります。主イエスは信仰の創始者です。わたしたちが彼を仰ぎ見て、見つめるとき、彼はご自身を信仰の要素として人の中へと注入されて、わたしたちの信仰となり、わたしたちの内側にあるすべての消極的なものを飲み尽くします。これによって、わたしたちは強められて前進することができます。そして、わたしたちは高く引き上げられ、わたしたちの環境を乗り越え、超越して勝利します。
詩歌(わが命に大変化あり) 習志野に在る教会作成
「人々は彼を見つめて光を発した.彼らの顔は決して恥じることはない」(詩篇 34篇5節)。
ある人は、お金は万能であると考えており、人はお金があれば悪鬼をさえも従わせることができると思っています。しかし、実際にお金は万能ではなく、神だけが万能です。お金は頼りないものですが、神だけが頼ることができる方です。一九一二年、史上で最も豪華で、最も快適なタイタニック号が進水し、最初の航海を始めました。船上の乗客は富んでいる人々で満ちていました。しかし、途中で氷山に追突し、徐々に沈んでいきました。その時に救命ボートの席数が足りず、ある富豪が五十万米ドルで一席を求めましたが、彼のそのお金と自分が救われる機会を交換する者はだれもいませんでした。最終的に、その富豪はお金と共に海の底に葬られてしまいました。神以外に望みを持つ者は、最終的に辱めを受けます。
「ああ、わが魂よ、なぜうなだれているのか? なぜわたしの内で思い乱れるのか? 神を待ち望め.わたしはわが顔の救い、またわが神である彼をほめたたえます」(詩篇 第42篇11節)
詩篇 第42篇5節で言います、「わが魂よ、なぜうなだれるのか? なぜわたしの内で思い乱れるのか? 神を待ち望め.わたしは彼の御顔の救いのゆえに」。この詩篇の背景は、詩人と彼の同胞が隣国によって打ち破られて捕虜にされています。彼は自分の家、国、すべてを失い、すべてを奪われて、彼の魂は憂いと思い乱れに満ちていました。しかしながら、彼は神を失っておらず、神の臨在が彼と共にありました。この臨在とは、神の御顔です。神の御顔は彼の患難における享受となりました。ですから、詩人は自分の魂、すなわち自分自身を励まし、失望することなく、神を待ち望みました。
11節は言います、「神を待ち望め.わたしはわが顔の救い」。多くの人は朝起きるとき、浮かない顔をしており、しかめ面をしており、彼らの顔には救いが見当たりません。もし、あなたは毎日少しの時間を使って祈って神ご自身を吸い込むなら、彼の御顔の救いは、あなたの顔の救いとなります。あなたは思い煩っており、神の御前で二十分間ひざまずいても語りかけがなく、ただため息、悲しみ、嘆き、待ち続けることしかないかもしれません。しかし、不思議なことに、二十分後にあなたの顔色が変わります。悲しみの顔が喜びの顔に変わります。あなたの顔から救いが現れます。この救いは神の御顔からです。なぜなら、あなたと神は面と向かったので、彼の御顔の救いがあなたの顔の救いとなりました。
「あなたはわが隠れ場、わが盾です.あなたの言葉を、わたしは待ち望みます」(詩篇 第119篇114節)。
何かを仰ぎ望むことは、それを待ち望むことです。詩人が神の言葉を仰ぎ望むと言う時、彼は神の言葉を待ち望むことを意味します。神の言葉を仰ぎ望むとは、神の言葉を通して神の御顔を尋ね求めることです。神の言葉を通して、わたしたちは隠れ場と盾としての神を享受することができます。隠れ場とは、避け所です。わたしたちが悩まされるときはいつも、一つの隠れ場があり、この隠れ場は神ご自身です。主イエスはわたしたちが人生におけるすべての嵐を避ける隠れ場であり、暴風雨から逃れさせてくださいます。
アメリカ合衆国の南北戦争の数年後、敵対陣営だった二人の軍官が偶然同じ集会で出会いました。一人が「キリストは我が魂の避け所」という詩歌を歌いました。もう一人がそれを聞くと、歌っている軍官に対して言いました、「あなたがどこかで歌っていたことをわたしは聞いたことがあります」。そして二人はしばらく黙っていると、それぞれ思い出しました。歌を歌った軍官は言いました、「ある年の冬、わたしは前線で守っていた時、月の光の下で歩いていました。そのとき、心の中で危険を感じてこのように思いました、『もし、相手がわたしに銃を撃ってきたらどうしようか? 死は目の前にあるのではないか? もし、わたしが死んだら、わたしの愛する母はどうなるのだろうか? わたしは神に会う準備はできているだろうか?』。こうして、わたしの心から自然に祈りが起こされ、詩歌を歌い始めました、『恵みの主はわたしをおおい、この他に避け所はない』。そして、その晩は平安に過ごしました」。もう一人の軍官は聞いてすぐに言いました、「そうです。あなたが雪の上を歩いていたことを覚えています。わたしは銃の照準を合わせて引き金を引こうとしたとき、突然あなたの歌声がはっきりと聞こえてきました。それによって、わたしの心の中で、銃を撃つことは自分の母親の胸を撃つこと、また救い主の胸を撃つことであるような感覚が出てきました。わたしの心は寛大になり、銃を降ろしました。その詩歌はあなたの保護となり、神の御手があなたの盾となりました」。
「朝にあなたの慈愛を聞かせてください.わたしはあなたに信頼するからです。歩むべき道をわたしに知らせてください.わたしはあなたに向かってわたしの魂を上げるからです」(詩篇 第143篇8節)。
主は避け所と盾だけでなく、わたしたちの人生における道の導きでもあります。わたしたちは主を仰ぎ見て、主に信頼するなら、彼は前の道を導いてくださいます。旧約のイスラエル人が荒野にいた時、昼間はエホバが雲の柱の中で彼らを導き、夜は火の柱の中で彼らを照らして、彼らが昼も夜も歩くことができるようにさせました。昼であれ、夜であれ、雲の柱と火の柱は彼らを離れることはありませんでした。これは、神が始終彼らと共におられ、彼らが前進するように導いておられたことを意味します。
わたしたちの生活行動には常に導きが必要です。わたしたちは、しばしば人生の方向はどこにあるのかがわからず、正しい道は何であるのかもわかりません。わたしたちはどのようにして、行き、止まり、進み、退き、右に行くのか左に行くのかを知る必要があります。神に感謝します。彼はわたしたちの導きであり、彼に触れたなら、導きがあり、方向があり、道があります。すべての選択の岐路において、彼はわたしたちの中におられ、最も正しい選択を選ぶように導いてくださいます。
「幸いである……自分の望みがエホバ・その神にある人は」(詩篇 第146篇5節)
わたしたちは神から最大の、最高の祝福を得ています。それは、キリストがわたしたちの中におられるということです。わたしたちがキリストを信じるとき、彼はわたしたちの中に入ってこられます。ある人はキリストを信じたらすぐにキリストが彼の中で彼を慰め満たしたと感じました。ある人は、内側で彼が罪を犯すことがないようにキリストが管理していると感じました。ある人はキリストが彼の中で、以前に打ち勝つことができなかった誘惑や試みに打ち勝ち、以前に耐えられなかった苦難と試練に耐えることができるようにしてくださったと感じました。また、ある人はキリストが彼の中で彼が歩む道を導き、彼が行なうべきことを指示してくださったと感じました。キリストに属するすべての者は、しばしば彼がわたしたちの中におられ、わたしたちと共におられると感じることができます。特にわたしたちが孤独な時、病の時、困難に出遭った時に感じます。
「蛇がどの人をかんでも、その人が青銅の蛇を見ると生きた」(民数記 第21章9節後半)
旧約の民数記第21章において、イスラエル人が罪を犯して神に罪を得た時、神は火の蛇を民の間に送られたので、蛇は民にかみつき、それでイスラエルの多くの民が死にました。民は悔い改めて罪を告白したので、神は、モーセに命じて、青銅の蛇を造り、竿の上にかけ、それを上げさせました。それは民の代わりに神によって裁かれ、彼らのために罪を贖うためでした。彼らがこの青銅の蛇を見るとき、死から免れ生きることができました。(4―9節)
青銅の蛇には火の蛇の形がありますが、火の蛇の毒はありません。イスラエル人が火の蛇にかまれた時、神の目において彼らは蛇となり、蛇の性質を持ちました。しかしながら、青銅の蛇は蛇の性質がなく、蛇の形だけを持っており、蛇の性質を持ったイスラエル人の身代わりになって神の裁きを受ける資格を持っています。竿の上にかけられた青銅の蛇のゆえに、彼らはこの青銅の蛇を見ることによって生きることができます。
青銅の蛇は主イエスの予表です。ヨハネによる福音書 第3章14から15節において、主イエスはこの絵を自分に適用して言いました、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」。実際に、わたしたちすべての人の中には、蛇の性質があって、蛇の毒に犯されています。神の目において、わたしたちはみな蛇となりました。蛇となった古代のイスラエル人は、青銅の蛇が上げられて、彼らの代わりになる必要がありました。わたしたちも、キリストが十字架上で死なれてわたしたちの代わりとなっていただく必要があります。古代のイスラエル人は青銅の蛇を「見る」と生きました。今日わたしたちが悔い改めて、わたしたちの心を上げ、十字架上に釘づけられたイエスを見つめ、仰ぎ望み、信じるなら、わたしたちは罪が赦されるだけでなく、さらには永遠の命を得てわたしたちの人生の満足となります。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第1巻より引用