小学校のときから、わたしは先生、先輩にとって「良い子」で、クラスメイトの間の小さな先生でした。中学、高校はすべて第一志望の学校に入りました。しかしながら、クラスメイトはみな優秀で、家庭が裕福で、環境に恵まれていたので、わたしはよく劣等感を感じて、必死に勉強しなければ人生には望みがないと感じていました。大学受験の年に、わたしはいつもよりも増して勉強に励みました。なぜなら、家の経済状況によれば、台南の大学に入れなければ、良い仕事がないと心で理解していたからです。
理想と現実の差
一生懸命勉強し、努力して奮闘した結果、やっと台南の成功大学建築学部に入ることができました。すばらしい前途の喜びは、大学が始まった数日間にとどまりました。数回クラスを受けて、わたしはすぐに後悔しました。なぜなら、自分の興味と建築学部の差があまりにも激しかったからです。建築は完全に芸術分野のもので、創作の才能が必要であり、努力だけでどうにかなるものではありませんでした。わたしが勉強のことで悩んでいるときに、二年上のある先輩がわたしの大学生活に入って来て、困難を突破するようにわたしを助けてくれました。
この先輩にはデザイン面の才能があり、わたしはうらやましいと思いつつも感服しました。こういうわけで、彼はわたしの人生の中に入ってきました。わたしは、彼が香港の華僑であって、育った背景が違うことを気にせず、また両親の反対も気にせず、彼と交際を続けました。卒業して二年後、順調にわたしは香港へと嫁ぎました。新しい将来に期待を抱き、雀が鳳凰にならなくても、少なくても一生幸せになると考えていました。しかし、実際と想像はかけ離れており、結婚後の生活もなお労苦と思い煩いでした。香港は土地が狭く、人は荒っぽいので、日常生活のプレッシャーは重いものでした。香港に三年住んだ後、わたしたちは長女を連れてアメリカに留学しました。留学は常に若者の夢でしたが、英語があまりうまくないわたしにとって、それはまたもう一つの挑戦の始まりでした。一面終わりが見えないような勉強に対応し、同時にパートの仕事をして、子供を顧みなければなりませんでした。生活のプレッシャーは香港にいたときと比べて、良くも悪くもありませんでした。やっとの思いで修士の学位を得た後、心の中で教科書には触れないと誓いました。
創業の危機と転機
アメリカでの学業を終え、わたしと夫は台湾に戻ってエンジニア界で評価が高いエンジニアコンサルタント会社へ入りました。大学を卒業してから、この十年の間にわたしは五つの都市に住み、十回転職しました。あらゆる挫折と経験を経て、やっと安定して、朝九時から夕方五時までの待遇の良い仕事を見つけることができました。しかし、事は願い通りにはいきませんでした。わたしは、夫がわたしと同じようにサラリーマンとして、仕事の後は一家団欒で、共に家庭を楽しむことを望んでいました。しかし、彼は必ず創業して、成功をしなければ人生は後悔すると考えていました。彼は仕事を第一にして、いつも遅くまで働いていました。しかしながら、事業を始めることは簡単なことでしょうか?
会社の運営を支えるために、夫は家庭を顧みる余力はほとんどありませんでした。わたしは家のすべての支出を担い、同時に三人の娘を顧みなければなりませんでした。家庭において、仕事において、両方の忙しさの中で、心と体が疲れ果ててしまいました。日が経つにつれて、わたしたち夫婦の間には、行き来がなくなり、さらには争いさえ起きました。
わたしたちの価値観が全く異なっており、さらにそれぞれに自分の主張があるので、二人の関係は徐々に離れていきました。結局、それぞれ自分の生活をし、このようにして時間はむなしく一日一日と過ぎていきました。ある日の夜、わたしたち二人は公園で話し合いをしようとしましたが、それぞれが自分の話をするだけで進展はありませんでした。終わりには彼は暗い無人の公園にわたし一人を残して去って行きました。わたしは怖がっている反面、憤って、絶望的になりました。わたしはほとんど崩壊寸前にまで達しました。前途が全く見えず、自分がこの世からいなくなりたいと思いつつも、三人の子供と愛する母親を置いていけないと思いました。わたしは失望しているときに、突然ある同僚がわたしに福音を伝え、簡単な祈りを教えてくれたことを思い出しました。この絶望的なときに、わたしは試してみようと思いました。「おお、主イエスよ! おお、主イエスよ!」。わたしは彼に告げました、「主よ、わたしを救ってください! あなたが本当にいるなら、彼を変えてください。彼が変わったなら、あなたを信じます!」。祈った後、心の中にあったあの憤りが、風船から空気が抜けるように消えていきました。こうして、わたしは平安のうちに家へ帰りました。
次の日、不思議な事が起こりました。わたしがまだ寝ぼけてもうろうとしているとき、驚いたことに、夫はわたしの耳のそばで、彼がこの家庭に対して申し訳なかったと言いました。さらにこれからはこの家庭をよく顧みることを約束しました。わたしは驚いて目が覚めて、「この神はすごいです! 結婚して以来二十二年、このようなことは起きたことはなかった」と思いました。夫はなお彼の事業に奮闘し続けましたが、このことで、主イエスはわたしが信じ、依り頼むことのできる方であることを確かに知りました。
わたしは同僚が与えてくれた住所にしたがって、近くの集会所へ行きました。わたしが初めて集会に参加したとき、わたしはまだ覚えていますが、あの詩歌を歌ったとき、涙が止まりませんでした。どうしてかわかりませんが、この生涯のすべての不満が涙と共に、まだこの知らない主に向かって一斉に流れていきました。この詩歌は言います、「死によりまく裂け、至せい所ひらき、へだてはのぞかれ、めぐみの御座へ、あわれみめぐみ受け、てき時のたすけ得、生けるみずを飲みて、なれの豊富に飽く」(詩歌181番、3節)。当時、わたしは完全に詩歌の内容を理解することはできませんでしたが、主がわたしに対して語っていることは、はっきりとしていました。主はわたしに言いました、「わたしはすでにあなたのために十字架につけられ、あなたのすべての罪を赦したのに、あなたはなぜあなたの最も愛する夫を許すことができないのか?」。するとわたしの悲しい涙は、感動の涙になりました。
長年、わたしは絶えず夫の一つ一つの過ちを数え、果てしない怒り、我慢、無力さ、苦痛の循環の中に生きていて、抜け出せませんでした。「許せない」という重荷は、絶えず大きくなる石のようにわたしにのしかかって、息することさえままなりませんでした。今や、主はわたしの罪を赦し、わたしの罪のために死んだと告げてくださいました。わたしの中に満ちた不満は灰となり、主から大きな慰めを得ました。もう一面、わたしは、自分の夫を許すことができるように力を与え、苦く、望みのない人生から救い出されるように主に求めました。
集会後、ある年長の姉妹がわたしのところにやってきて親切に言いました、「あなたは聖霊に感動されたので、バプテスマすることができます」。そして、時間を約束して、わたしは喜んでバプテスマされました。水から上がってきた後、わたしの全存在は重荷から解き放たれたような喜びがありました。家に帰る途上は、いつもの道でしたが、比べものにならないほど美しく見えました。長い間、笑顔のなかったわたしが、天からの平安と満足を得て、詩歌を口ずさんで、喜び、軽い足取りで家に帰りました。その日から、喜びの霊が毎日わたしを満たしました。
古いものは過ぎ去り、すべては新しくなった
救われる前、感情と結婚において、わたしは心がとても狭い人間でした。常に夫を近くに束縛し、わたしを第一位にするように彼に望みました。わたしは彼が全力で事業に重きを置くことを理解できなかったので、常に彼に反対して、彼が家族の関心と支えを得られないようにしました。ある日、わたしはペテロの第1の手紙第3章1節を読みました、「妻たちよ、あなたがた自身の夫に服従しなさい.そうすれば、たとえ御言に従わない者であっても、御言なしに、その妻の生活態度を通して、彼らは獲得されます」。わたしはとても照らされて、以前のように理不尽に夫を監視し、彼のすべての行為に反対することをやめました。そうではなく、日々詩歌を歌い、聖書通読し、祈ることを通して主を享受し、天の喜びに満たされました。
わたしの変化を見て、夫も徐々に集会に参加し始めました。二年後、彼もバプテスマされました。ある詩歌は彼の人生を物語っています、「わたしたちはかつてあらゆる山の頂を尋ね求めて、人生の真相を知ることを望みましたが、毎回得たのは失望であって、この世はただこのようなものでした」(中文補充本詩歌819番)。毎回この詩歌を歌うとき、夫は感動して多く涙を流します。夫が救われた後、機嫌も変わり、仕事後はできるだけ早く戻ってきて集会に参加し、また非常に子供たちの状況に関心を持ち、全家族を導いて祈り、詩歌を歌いました。彼の命と性質が造り変えられたことは、常にわたしを感動させました。長年交わることがなかった二本の平行線が、今や一つ思いで詩歌を歌い、祈り、出て行って訪問し、家を開くことができました。これによってわたしたちの家は神に仕える家となりました! これは、「人にはできないが、神にはすべての事ができる」という真の証しです。
コリント人への第2の手紙第5章17節で言います、「ですから、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました.見よ、それらは新しくなりました」。以前、わたしが奮闘し、努力し、時間と労力を費やして追い求めたものは、みなわたしを満たすことができませんでした。今やわたしはキリストと召会生活のゆえに新しい人生を持ち、生ける望みを持ち、生活に絶え間ない喜びに満たされています。主に出会うことはわたしの生涯で最も価値があり、最も有意義なことです。以前の苦しみは今日の救いのためであり、神の力を表現するためであるなら、それは実に価値があるものです!
詩歌203:生ける水の川(調布に在る召会作成)
記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第5巻より引用